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R.シュトラウス 交響詩「死と変容」 作品24


セル指揮 クリーブランド管弦楽団 1957年3月29〜30日録音をダウンロード


「暗黒から光明へ」というロマン派の思想が反映した作品



この作品は「ドン・ファン」と平行するように書かれた作品で、1889年11月11日にドンファンの初演が行われた1週間後の11月18日に完成したと言われています。この作品について、シュトラウスは友人への手紙の中で、「極めて高い目標に向かって努力している一人の芸術家としての人間が死の瞬間をむかえるときの様子を交響詩で表現しよう」としたと述べています。
つまり、生きている間は実現できなかった芸術的理想が、死を迎えることによって永遠の宇宙の中で実現されるというモチーフを音にしようというのです。
正直言って、今の時代を生きる人間にとっては、そのあまりにも大仰な物言いはピントくるものではないのですが、これがいわゆる19世紀のロマン主義というものなのでしょう。
なお、この作品のスコアの冒頭にアレクサンダー・リッターという詩人の詩が掲げられていますが、これは、作品の内容を聴衆に理解しやすくするために、シュトラウスが詩人のリッターに音楽を聞かせて書かせたものです。もともとは、初演の祭にパンフレットのような形で聴衆に配布したらしいのですが、後に、リッター自身が作品の不十分さを感じて全面的に改定し、それがスコアに掲げられるようになったものです。
「暗から明へ」「暗黒から光明へ」というロマン派好みの分かりやすさに貫かれた作品だと言えますし、管弦楽法の達人と言われるようになるシュトラウスの腕がはっきりと感じ取れる作品となっています。

セルとシュトラウス

セルのキャリアを考える上で忘れてならないのは、リヒャルト・シュトラウスとの出会いです。ベルリンの宮廷歌劇場に招かれたシュトラウスが、当時ベルリンでそのキャリアをスタートさせたばかりのセルの才能に着目してスタッフに加えたのです。
セルは、シュトラウスのもとで歌手の練習から始まってピアニストとして、さらには練習指揮者として大活躍をすることになります。セル自身もシュトラウスのもとで多くのことを学んだことを後に語っており、シュトラウスに対する尊敬は終生変わらぬものでした。
ただし、音楽よりもカード遊びの方が大好きだったシュトラウスのことを回想しながら、演奏の最中に時計を見て、このままでは約束のカードの時間に間に合わないとみて、突如テンポを上げてあっという間に終えてしまった・・・というエピソードなんかもうれしそうに語っていますから、おそらく「いろんな事」を学んだのでしょう。ちなみに。のだめの中に登場する「マエストロ、シュトレーゼマン」はずいぶん誇張されたキャラクターのように思われるかもしれませんが、意外と偉大な音楽家というのは基本的にあんな人が多いようですね。

さて、そうしてシュトラウスのもとで修行に励んでいたセルに、シュトラウスは自分のもとを離れてどこかの地方の歌劇場のシェフになることをすすめます。つまりは、自分の歌劇場をもってそこで腕を磨けと言うことです。尊敬すべきシュトラウスからの忠告ですから、結局はわずか2年でシュトラウスのもとを去りストラスブールの歌劇場へ向かいます。セル19歳の時です。
その後のセルはヨーロッパ各地の歌劇場でキャリアを積み上げ、その後第二次大戦の勃発でアメリカに腰を据えて活動を展開したことはよく知られていることです。

そう言うキャリアを持つセルですから、シュトラウスの作品は彼にとって終生変わらぬ重要なレパートリーでした。ニューヨークのメトロポリタンでは薔薇の騎士を取り上げていますし、ニューヨークフィルとのコンサートでも頻繁にシュトラウスの交響詩などを取り上げています。
このスタンスは、やがて彼がクリーブランドの音楽監督に就任しても変わることはなく、そう言うセルの活動に対してシュトラウスは遠く失意のヨーロッパから「もう私はいつ死んでも思い残すことはない。このような若者が私の跡を継いでくれるのだから」とエールを送りました。

セルの簡潔であるものの明確な指揮のスタイルは明らかにシュトラウスからの強い影響を受けています。そして、そう言うセルの棒から紡ぎ出される音楽にシュトラウスは全幅の信頼を寄せていました。
しかし、以前にも少しふれたことがあるのですが、そう言う師弟の関係であってもセルはシュトラウスを盲信していたわけではありませんでした。
例えば、ここで紹介しているティルにおいても彼は大胆なスコアの改変を行っています。詳しくはこちらをご覧あれ。
なかなかこの二人の関係には面白いものがあります。