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ブラームス:交響曲第1番 ハ短調 作品68
ミュンシュ指揮 ボストン交響楽団 1956年11月19日録音をダウンロード
- Brahms:Symphony No.1 in C Minor, Op. 68 [1.Un poco sostenuto - Allegro]
- Brahms:Symphony No.1 in C Minor, Op. 68 [2.Andante sostenuto]
- Brahms:Symphony No.1 in C Minor, Op. 68 [3.Un poco allegretto e grazioso]
- Brahms:Symphony No.1 in C Minor, Op. 68 [4.Piu andante - Allegro non troppo, ma con brio - Piu allegro]
ベートーヴェンの影を乗り越えて
ブラームスにとって交響曲を作曲するということは、ベートーヴェンの影を乗り越えることを意味していました。それだけに、この第1番の完成までには大変な時間を要しています。
彼がこの作品に着手してから完成までに要した20年の歳月は、言葉を変えればベートーヴェンの影がいかに大きかったかを示しています。そうして完成したこの第1交響曲は、古典的なたたずまいをみせながら、その内容においては疑いもなく新しい時代の音楽となっています。
この交響曲は、初演のときから第4楽章のテーマが、ベートーヴェンの第9と似通っていることが指摘されていました。それに対して、ブラームスは、「そんなことは、聞けば豚でも分かる!」と言って、きわめて不機嫌だったようです。
確かにこの作品には色濃くベートーヴェンの姿が影を落としています。最終楽章の音楽の流れなんかも第9とそっくりです。姿・形も古典派の交響曲によく似ています。
しかし、ここに聞ける音楽は疑いもなくロマン派の音楽そのものです。
彼がここで問題にしているのは一人の人間です。人類や神のような大きな問題ではなく、個人に属するレベルでの人間の問題です。
音楽はもはや神をたたるものでなく、人類の偉大さをたたえるものでもなく、一人の人間を見つめるものへと変化していった時代の交響曲です。
しかし、この作品好き嫌いが多いようですね。
嫌いだと言う人は、この異常に気合の入った、力みかえったような音楽が鬱陶しく感じるようです。
好きだと言う人は、この同じ音楽に、青春と言うものがもつ、ある種思いつめたような緊張感に魅力を感じるようです。
ユング君は、若いときは大好きでした。
そして、もはや若いとはいえなくなった昨今は、正直言って少し鬱陶しく感じてきています。(^^;;
かつて、吉田秀和氏が、力みかえった青春の澱のようなものを感じると書いていて、大変な反発を感じたものですが、最近はこの言葉に幾ばくかの共感を感じます。
それだけ年をとったということでしょうか。
なんだか、リトマス試験紙みたいな音楽です。
ミュンシュの不幸
ミュンシュのブラ1と言えば、誰もが最晩年のパリ管との録音を思い出すでしょう。しかし、あれはミュンシュ自身にとっても「異形」の演奏でした。それは、同時に録音されたベルリオーズの幻想にも言えます。そして、その「異形」の演奏がまるでミュンシュを代表する演奏であるかのように流布したことが、ミュンシュにとっての不幸だったように思います。すでに何度も書いていますが、しつこくさらに繰り返しておきます。
ミュンシュという指揮者の真骨頂は、あの最晩年のフルトヴェングラーを思わせるような情念のたぎる演奏にあるのではありません。
そうではなくて、それとはまったく真逆の、各声部をバランス良く響かせて、決して重くなることのない「軽み」のある響きで明晰に作品を描き出すことにこそ彼の美質がありました。
ところが、あのパリ管との演奏でミュンシュと出会った人たちは、ボストン時代の録音にも同じものを求めてしまったようです。結果は、重みもなければ面白味もないという評価につながってしまい、結果としてミュンシュという指揮者の地盤沈下につながったとすれば実に残念な話です。
もう少し、個々の演奏を客観的に聞く心があれば、そこでミュンシュが何を求めていたかは容易に聴き取れたはずです。確かに、あのパリ管との録音は悪くはありません。しかし、それを持ってミュンシュという人の評価の軸に据えるのは間違いです。
そう言う意味で、是非とも、響きが決して重くなることない明晰なブラームスをお楽しみください。