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ブラームス:交響曲第1番 ハ短調 作品68
クレンペラー指揮 フィルハーモニア管弦楽団 1956年10月29,30日&1957年3月28日録音をダウンロード
- Brahms:Symphony No.1 in C Minor, Op. 68 [1.Un poco sostenuto - Allegro]
- Brahms:Symphony No.1 in C Minor, Op. 68 [2.Andante sostenuto]
- Brahms:Symphony No.1 in C Minor, Op. 68 [3.Un poco allegretto e grazioso-Piu andante]
- Brahms:Symphony No.1 in C Minor, Op. 68 [4.Allegro non troppo, ma con brio - Piu allegro]
ベートーヴェンの影を乗り越えて
ブラームスにとって交響曲を作曲するということは、ベートーヴェンの影を乗り越えることを意味していました。それだけに、この第1番の完成までには大変な時間を要しています。
彼がこの作品に着手してから完成までに要した20年の歳月は、言葉を変えればベートーヴェンの影がいかに大きかったかを示しています。そうして完成したこの第1交響曲は、古典的なたたずまいをみせながら、その内容においては疑いもなく新しい時代の音楽となっています。
この交響曲は、初演のときから第4楽章のテーマが、ベートーヴェンの第9と似通っていることが指摘されていました。それに対して、ブラームスは、「そんなことは、聞けば豚でも分かる!」と言って、きわめて不機嫌だったようです。
確かにこの作品には色濃くベートーヴェンの姿が影を落としています。最終楽章の音楽の流れなんかも第9とそっくりです。姿・形も古典派の交響曲によく似ています。
しかし、ここに聞ける音楽は疑いもなくロマン派の音楽そのものです。
彼がここで問題にしているのは一人の人間です。人類や神のような大きな問題ではなく、個人に属するレベルでの人間の問題です。
音楽はもはや神をたたるものでなく、人類の偉大さをたたえるものでもなく、一人の人間を見つめるものへと変化していった時代の交響曲です。
しかし、この作品好き嫌いが多いようですね。
嫌いだと言う人は、この異常に気合の入った、力みかえったような音楽が鬱陶しく感じるようです。
好きだと言う人は、この同じ音楽に、青春と言うものがもつ、ある種思いつめたような緊張感に魅力を感じるようです。
ユング君は、若いときは大好きでした。
そして、もはや若いとはいえなくなった昨今は、正直言って少し鬱陶しく感じてきています。(^^;;
かつて、吉田秀和氏が、力みかえった青春の澱のようなものを感じると書いていて、大変な反発を感じたものですが、最近はこの言葉に幾ばくかの共感を感じます。
それだけ年をとったということでしょうか。
なんだか、リトマス試験紙みたいな音楽です。 い人でも、この作品の冒頭を知らない人はないでしょう。
実に真っ当で立派な演奏
クレンペラーと言えばその厳格なフォルムと遅いテンポがトレードマークになっています。しかし、それはモントリオール空港でタラップから転落して大怪我をし、その結果として椅子に座って指揮をせざるを得なくなった1954年以降のスタイルです。それ以前のクレンペラーはとんでもない快速テンポで全曲を押し切ったりすることも多く、生涯を通じてあのような演奏スタイルをを貫いていたわけではありません。さらに言えば、1958年には「寝たばこ事件」を引き起こして全身大火傷(x_x)、指揮棒すらももてないような状態に陥ってしまいます。これ以後はさらにテンポが落ちていき、まさに多くの方が思い浮かべるであろうあのスタイルができあがりました。
さて、問題はここからです。
以前、クレンペラーのあの遅いテンポは精神性云々などとは関係なく、ただ単に肉体的なダメージと衰えという『老化』からきた産物にしかすぎないと書いたことがあります。その結果として、それはそれはたくさんの方から「お叱りとご批判のメール」をいただきました。(^^;
それらを総合すると、「お前みたいなやつには一生かかってもクラシック音楽の持つ深い精神性ななどは分からない」というものでした。まあ、個人的にはそんなものは分からなくても一向かまわないのですが、これでよく分かったことは、多くの方があの晩年のスタイルを高く評価し愛していると言うことです。
もちろん、「いいな!」と思う録音もたくさんあります。ベートーベンの7番とかメンデルスゾーンの3番とか・・・。でも、つきあいきれんなぁ!というのもたくさんあります。(特に、昨今よく出てきた晩年のライブ録音)
そして、そう言う方々の多くは、晩年スタイルが徹底されていない50年代中期の録音をほとんど省みない、もしくは評価しないと言うことにも気づかされました。
その「省みられない」、もしくは「評価されない」の典型が、この56年〜57年にかけて録音されたブラームスの交響曲全集です。
クレンペラーはブラームスを愛していたと思います。コンサートでもよく取り上げていますし、フィルハーモニア管との録音を始めた時にも、真っ先にこの全集を仕上げています。
しかし、何故か、あまり、・・・いや、殆どといっていいほどこの全集が話のネタに取り上げられることはありません。
それも多くの人がダメ出しをした結果評価されなくなったのではなく、とにかく話題として浮かび上がってこないのです。
これがマーラーやブルックナーの演奏ならば多くの人からダメ出しの批判を受けながらも、それでも他方には評価する人もいて、その結果として、時々は話題に上ってきます。それに対して、このブラームスの演奏に関しても良いという声も悪いという声も聞こえてくることは希で、ホントに忘れ去られたかのように話題にならないのです。
聞いてみれば、実に立派なブラームス演奏なだけに、実に不思議な話です。
おそらく、日本におけるクレンペラーという指揮者の「レゾンデートル」は「異形」にあるのでしょう。それは、逆に言えば、真っ当でスタンダードな演奏をするクレンペラーというのは、「良い悪い」以前に興味をひかないという事なのではないでしょうか。
まずは第1番ですが、驚くほどに真っ当な演奏です。テンポ設定はやや早めの部類にはいるのでしょうが、セカセカした印象は受けません。それは作品全体のフォルムが実にかっちりと作られているからで、ある意味では極めて優等生的な演奏です。ただ、晩年のクレンペラーを特徴づける雄大なイメージは乏しいかもしれません。
また、この第1番というシンフォニーには、どこか青春の澱のような気負いや突っ張った雰囲気があるのですが、この演奏ではそう言う尖った部分がかっちりとしたフォルムの中に押し込められているような不満が残ります。
とは言っても、トータルで見れば実に立派なブラームスです。
そして、そう言う尖った部分が綺麗に整理された第3番だと、上で述べたような不満は殆ど感じません。
情緒にもたれることなくかっちりとしたフォルムの中から寂寞とした雰囲気がにじみ出してくる演奏は、全4曲の中では一番成功しているのではないでしょうか。
実は、セルのブラームスにも同じ事が言えて、フォルム重視でブラームスを演奏すると、3番がもっとも相性がいいようです。
次に第2番ですが、これに関しては前半の3楽章がいささか窮屈な感が否めません。もちろん、ブラームスの『田園交響曲』という先入観にとらわれる必要はないのですから、こういうかっちりとした演奏があっても良いとは思うのですが、聞いていてあまり楽しくないのも事実です。
ただし、最終楽章の圧倒的迫力は、このようなアプローチによってもたらされたものであることは明らかで、結果的にはいささか不満を感じた前半部分を帳消しにしてしまうほどの力を持っています。
ホントに、困ったものです。
そして、最後の第4番ですが、これは全4曲の中では最も『異形』に近い演奏家もしれません。これほどゴツゴツ感のある第4番も珍しいのではないでしょうか。特に、最終楽章のパッサカリアは、あの音形が聞き手にもはっきりと分かるように、念押しするようにきっちりと提示されています。個人的にはいささか煩わしく感じないでもありませんが、他では聞けないテイストを持った演奏であることは事実です。
全体を通してまとめてみれば、極めて真っ当ななテンポ設定と、キチンとしたフォルム重視の、実にスタンダードな演奏だと言うことです。部分的には『おや?』という異形な部分があることも事実ですが、全体的に見てみれば、実に真っ当で立派な演奏です。
そして、この「真っ当で立派」というのが、何とも扱いに困るのでしょう。
こんな真っ当な演奏をするクレンペラーというのは心情的に好きになれない、でも聞いてみれば確かに立派な演奏なのでケチをつけるのも躊躇われる、それなら「敬して遠ざけ」ておこうと言うことになったのではないでしょうか。
もちろん、これはあまりにも「深読み」がすぎるのかもしれません。しかし、クレンペラーと言えば、あの超スローテンポによる異形の演奏しかイメージできない人がいたならば、一度はこんなにもまともな演奏をしていた時代があったことを知っておいても良いのではないでしょうか。