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チャイコフスキー:交響曲第6番 ロ短調 作品74「悲愴」

マルティノン指揮 ウィーンフィル 1958年3月31日〜4月6日録音



私は旅行中に頭の中でこれを作曲しながら幾度となく泣いた。

 チャイコフスキーの後期の交響曲は全て「標題音楽」であって「絶対音楽」ではないとよく言われます。それは、根底に何らかの文学的なプログラムがあって、それに従って作曲されたというわけです。
 もちろん、このプログラムに関してはチャイコフスキー自身もいろいろなところでふれていますし、4番のようにパトロンであるメック夫人に対して懇切丁寧にそれを解説しているものもあります。
 しかし6番に関しては「プログラムはあることはあるが、公表することは希望しない」と語っています。弟のモデストも、この6番のプログラムに関する問い合わせに「彼はその秘密を墓場に持っていってしまった。」と語っていますから、あれこれの詮索は無意味なように思うのですが、いろんな人が想像をたくましくしてあれこれと語っています。

 ただ、いつも思うのですが、何のプログラムも存在しない、純粋な音響の運動体でしかないような音楽などと言うのは存在するのでしょうか。いわゆる「前衛」という愚かな試みの中には存在するのでしょうが、私はああいう存在は「音楽」の名に値しないものだと信じています。人の心の琴線にふれてくるような、音楽としての最低限の資質を維持しているもののなかで、何のプログラムも存在しないと言うような作品は存在するのでしょうか。
 例えば、ブラームスの交響曲をとりあげて、あれを「標題音楽」だと言う人はいないでしょう。では、あの作品は何のプログラムも存在しない純粋で絶対的な音響の運動体なのでしょうか?私は音楽を聞くことによって何らかのイメージや感情が呼び覚まされるのは、それらの作品の根底に潜むプログラムに触発されるからだと思うのですがいかがなものでしょうか。
 もちろんここで言っているプログラムというのは「何らかの物語」があって、それを音でなぞっているというようなレベルの話ではありません。時々いますね。「ここは小川のせせらぎをあらわしているんですよ。次のところは田舎に着いたうれしい感情の表現ですね。」というお気楽モードの解説が・・・(^^;(R.シュトラウスの一連の交響詩みたいな、そういうレベルでの優れものはあることにはありますが。あれはあれで凄いです!!!)
 
 私は、チャイコフスキーは創作にかかわって他の人よりは「正直」だっただけではないのかと思います。ただ、この6番のプログラムは極めて私小説的なものでした。それ故に彼は公表することを望まなかったのだと思います。
 「今度の交響曲にはプログラムはあるが、それは謎であるべきもので、想像する人に任せよう。このプログラムは全く主観的なものだ。私は旅行中に頭の中でこれを作曲しながら幾度となく泣いた。」
 チャイコフスキーのこの言葉に、「悲愴」のすべてが語られていると思います。

これを悲愴のベストに推す人も多い録音です


この録音が初めて発売されたときは、その意外な組み合わせの故かかなりのベストセラーになったと伝えられています。私も、この録音を始めて聞いたのはおそらくクラシック音楽などというものを聞き始めて間もない頃だったと記憶しています。
悲愴を初めて自分の買ったレコードで聞いたのは恥ずかしながらカラヤンでした。それと比べると、このマルティノンの演奏は随分と薄味に聞こえたもので、その当時のユング君はあまり喜ばなかったことだけは覚えています。しかし、これをアップしようと考えて久しぶりに聴き直してみると、意外なほどにアクが強くて、どうして昔はこれを薄味に思ったのだろうと首をかしげてしまいました。

まず何よりも最終楽章、薄味どころか、これほど深い悲しみをたたえた演奏はそうあるものではありません。ムラヴィンスキーの演奏はもちろんすばらしいのですが厳粛にすぎます。カラヤンは、表面的な美しさにどうしても耳がいってしまいます。
それと、あちこちで炸裂するウィーンフィルの野蛮なブラスの響きは、今では聞くことのできなくなってしまったものです。この響きが実にマルティノンの音楽作りにマッチしています。

それから第2楽章の、踊ろうとして踊りきれぬ5拍子のワルツも粘りけいっぱいに歌わせています。もちろん、第1楽章の地獄を底をのぞき込むような凄味も、第3楽章の堂々たる作りも実に魅力的です。

そう言えば、この録音を悲愴の基準だとして、これよりもアクが強くても罪にはならないが、これより低体温だと犯罪ものだと書いている人がいました。昔は、これを読んで、これより低体温の演奏なんてあるんだろうかと思っていたのですが、なるほど、一見端正に見える音楽作りの中に、押さえるべきポイントはしっかりと押さえていることに気づかされると、この指摘は的を射ています。

さらに、もう一つ注目すべきは、録音のクオリティの高さです。デッカの名プロデューサー、カルショウによる録音なのですが、彼はこの時期ショルティを起用してのリングの録音も始めており、まさに油乗り切った時代の仕事です。
広大な音場の中で一つ一つの楽器がこれほども生々しくとりこまれている様な録音は今の時代も数えるほどしかないような気がします。いったいレコード業界はこの半世紀、何をしていたのでしょうか?