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モーツァルト:ヴァイオリンソナタ第34番 変ロ長調 K378(317d)


(P)ハスキル <Vn>グリュミオー 1958年10月16〜17日録音をダウンロード


ザルツブルグからウィーンへ:K376〜K380



モーツァルトはこの5曲と、マンハイムの美しい少女のために捧げたK296をセットにして作品番号2として出版しています。しかし、成立事情は微妙に異なります。
まず、K296に関してはすでに述べたように、マンハイムで作曲されたものです。
次に、K376〜K380の中で、K378だけはザルツブルグで作曲されたと思われます。この作品は、就職活動も実らず、さらにパリで母も失うという傷心の中で帰郷したあとに作曲されました。しかし、この作品にその様な傷心の影はみじんもありません。それよりも、青年モーツァルトの伸びやかな心がそのまま音楽になったような雰囲気が作品全体をおおっています。
そして、残りの4曲が、ザルツブルグと訣別し、ウィーンで独立した音楽家としてやっていこうと決意したモーツァルトが、作品の出版で一儲けをねらって作曲されたものです。
ただし、ここで注意が必要なのは、モーツァルトという人はそれ以後の「芸術的音楽家」とは違って、生活のために音楽を書いていたと言うことです。彼は、「永遠」のためにではなく「生活」のために音楽を書いたのです。「生活」のために音楽を書くのは卑しく、「永遠」のために音楽を書くことこそが「芸術家」に求められるようになるのはロマン派以降でしょう。ですから、一儲けのために作品を書くというのは、決して卑しいことでもなければ、ましてやそれによって作り出される作品の「価値」とは何の関係もないことなのです。

実際、ウィーンにおいて一儲けをねらって作曲されたこの4曲のヴァイオリンソナタは、モーツァルトのこのジャンルの作品の中では重要な位置を占めています。特に、K379のト長調ソナタの冒頭のアダージョや第2楽章の変奏曲(アインシュタインは「やや市民的で気楽すぎる変奏曲」と言っていますが・・・^^;)は一度聴いたら絶対に忘れられない魅力にあふれています。また、K377の第2楽章の変奏曲も深い感情に彩られて忘れられません。
ここでは、ヴィオリンとピアノは主従を入れ替えて交替で楽想を分担するだけでなく、二つの楽器はより親密に対話をかわすようになってます。これら4曲は、マンハイムのソナタよりは一歩先へと前進していることは明らかです。

才能あふれる若者を引き立てようとしたココロ穏やかな音楽

2010年が明けました。普通はこの後に、2009年のあれこれのふりかえりや反省などとともに新しい年への希望や抱負などが続くのですが、このサイトでは、「1959年にリリースされた音源が新しくパブリックドメインになりました」となります。(^^v
さて、この1959年という年を振り返ってみると、実にみのり豊かな年であったことに気づかされます。
リヒターの「マタイ受難曲」やショルティの「ラインの黄金」は言うまでもなく、その後長くスタンダードの位置を占めるようになる録音が数多くリリースされた年でした。

さて、その中から、新年の最初を如何にと熟慮した末に(?)選んだのが、このハスキル&グリュミオーによるモーツァルトのヴァイオリンソナタです。
まず何と言っても、グリュミオーのヴァイオリンの音が美しい!!そして、録音の方も申し分なしで、その美音を実に見事にすくい取っていて不満は全く感じません。もちろん、ただ音が美しいだけでなく、グリュミオーのヴァイオリンはモーツァルトの音楽にこめられた「歌心」を見事に描ききっています。
少し残念なのは、ハスキルがグリュミオーのサポートに徹しきっているのか、いささか控えめなことです。たとえば、ホ短調ソナタの第2楽章などは、もっと零れるような涙のしずくを感じさせるように弾くことだって可能だと思うのですが、何故か彼女はそうしていません。あくまでも控えめにふるまってグリュミオーの美しさを際だてようとしています。
しかし、考えようによってはこういうの演奏は希有な存在です。芸の世界は目立ってなんぼ・・・です。それをあえて、自分を殺してまでも相手の美点をひきたてようとしているのですから。
確かに、ヴァイオリンとピアノがしっかりと自己主張して丁々発止のやりとりをするのを聞くのも耳福ではあります。
しかし、一つの世界を築き上げた老人(ハスキル63歳)が、才能あふれる若者(グリュミオー37歳)を引き立てようとした演奏は、実にしみじみとココロ穏やかにさせてくれて、これまた耳福であります。
弱肉強食を是とし、その中で他人を出し抜いてでも前に出ることを賛美してきた社会が醜くも崩壊する様を見せつけられた後では、こういう音楽はまさに(あまり使いたくない言葉ですが・・・)、一つの「救い」であるのかもしれません。