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ブルックナー:交響曲第5番
クナッパーツブッシュ指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 1956年6月録音をダウンロード
- ブルックナー:交響曲 第5番 変ロ長調「第1楽章」
- ブルックナー:交響曲 第5番 変ロ長調「第2楽章」
- ブルックナー:交響曲 第5番 変ロ長調「第3楽章」
- ブルックナー:交響曲 第5番 変ロ長調「第4楽章」
何故か演奏機会の少ない作品です
ブルックナーを心から敬愛する愛好家からは最もブルックナーらしい傑作として高く評価されることの多い作品ですが、何故か演奏機会は多くありません。
その辺の事情は初演時も同じだったようで、途中で第3交響曲の改訂という大きな中断を含みながらも1878年にようやく完成を見たこの作品は、なかなか演奏の機会に恵まれませんでした。
ピアノ編曲による試演などは行われたようですが、本来の形での演奏は1894年にシャルクによって行われました。しかし、当時既に病に伏していたブルックナーはこの演奏会におもむくことができず、翌年にレーヴェによって行われた演奏会にも出かける事はできませんでした。
おそらくブルックナーはこの作品を自分の耳で聞く機会はなかったのではないかと考えられます。
また、シャルクやレーヴェによる演奏も、いつものごとく大幅なカットや改訂が行われていたようです。
その様な不幸な生い立ちがこの作品のポピュラリティを引き下げる要因となったかもしれません。
冒頭の「ブルックナーの霧」が晴れると目の前に巨大なアルプスの山塊がそびえ立つような音楽は、最もブルックナーらしい音楽といえるかもしれません。また、第1楽章も第2楽章もアダージョというのはそう言うブルックナーらしさをより一段と強調しています。
そして、何よりも最終楽章のフィナーレはブルックナー自身が「コラール」と名付けているように、雄大かつ荘厳、壮麗な音楽です。
この長大な音楽を聞き続けてきたものにとって、この最後の場面で繰り広げられる音楽こそは、ブルックナーを聞く最大の喜びだといえます。
<追記>
ある方からメールので以下のようなご指摘をいただきました。
「こんにちは。いつも楽しく聴かせていただいています。Thanks a lot!
ブルックナーのファンとしてひとつ気になったのが、5番の解説で"1楽章も2楽章もアダージョ"と書かれているところです。ご承知のように1楽章はアダージョの序奏を持つアレグロの楽章で、2楽章とは通常のシンフォニーと同じように急ー緩の対比があると思います。1楽章と4楽章が共通のアダージョの序奏を持っていること、4楽章の2重フーガで1楽章のアレグロの楽想が帰ってくるところ、などがこの交響曲を特徴付けていると思うのですが?」
まったくその通りです。
感謝!!
評価の分かれる演奏
この録音は評価が分かれますね。朝比奈、ヴァント、シューリヒトというような正統派のブルックナーを良しとする人たちにとっては、これはもう「許しがたい演奏」とうつるようです。
まずは、シャルクの改鼠版を使っているということで許せない。終楽章のコーダもただの大風呂敷にしか聞こえない。中には、クナはライブでこそ真価を発揮するからセッション録音は全部ダメ!!という過激な方もおられるようです。
しかし、一般的には、クナのブルックナー録音の中ではミュンヘンフィルのブル8と並んでもっとも人気があります。
私も、初めてこの録音を聞いたときは、最後の最後で何が起こったのかと腰が抜けそうになったものです。おかげで、その後は「正しい原典版」を聞くと物足りなさを感じて、「5番はやっぱり改訂版に限るなぁ!」などと恐れ多いことをほざいてしまうのです。
それにしても、どうしてブルックナーだけは「特別」な聴き方を求められるのでしょう?そういえば、アシュケナージが指揮者稼業を始めたときに「ブルックナーなんてアマチュア作曲家だ!」みたいな事を発言して袋だたきにあったことがあります。
でも、正直言うと、あのアシュケナージの発言は理解できるような気がするのです。
だって、ブルックナーがわけの分からない音楽を「交響曲」と称してリリースし始めたのを、ハタでせせら笑っていたのはブラームス先生だったのです。ブラームス先生もブルックナーのスコアを見て「ド素人!」と吐き捨てたそうです。
何しろ、ブラームスにとって交響曲というのは、あの偉大なベートーベンの跡を継ぐものであり、ちょっとやそっとでは手を出せない神聖な領域だったのです。そこへ、素人同然の杜撰な音楽を「交響曲」と称して発表し始めたのですから、かなりカチンときたようです。
そして、一説によると(かなり確度は高い)、そのカチンときたがゆえに、長く放置していたファーストシンフォニーを完成させる気になったと言うことです。
問題は、ブルックナーの「未熟さ」は「ハイドンーベートーベン」という系譜の延長線上に置いたときに「未熟」と言えるのであって、「俺の音楽はそんなものを超越したところにあるもんね!」と開き直れば、その「未熟」は「神聖なる異形」に転化するということです。
アシュケナージは偉大なピアニストであり、そこに己のアイデンティティを担保した上で指揮者稼業に転出したので、コワイもの知らずで正直に発言することができました。しかし、指揮者稼業だけで生きている人には怖くてそこまでは言えないでしょうね。でも、心の中ではそう思っている指揮者はたくさんいるはずです。
「何や、このスコアわけ分からんがなぁ・・・!!」
ここで道は二つに分かれます。
わけが分からなくても、ひたすらブルックナーを信じてわけの分からない部分も忠実に演奏するのか、自分なりにわけが分かるように整理して演奏するかです。
朝比奈は基本的に何も考えない人なので、ひたすらブルックナーのスコアを音にして「巨匠」となりました。愚も徹すれば偉大に転化するもので、大阪人のユング君はそういう朝比奈にココロから拍手をおくるためにフェスティバルホールにせっせと足を運んだものです。
でも、まじめに考え始めれば納得がいかないのは当然で、それなら「改鼠版」を使うか!と言う考えがあっても不思議ではありません。あの「改鼠版」というのは、あまりにも「未熟」なブルックナーのスコアを何とか聞けるように「後期ロマン派風のシンフォニー」に仕立て直したものだからです。
また、改鼠版は使うまでの踏ん切りはつかなくても、後期ロマン派風の交響曲として演奏する指揮者はたくさんいました。私の大好きなテンシュテットなんぞはその典型でしょうね。
しかし、そういう仕立て直しは許せないという人も当然いるわけです。
彼らは「神聖なる異形」は神聖なものとして取り扱うべきであって、それを後期ロマン派風に仕立て直すなどは「言語道断」と一刀両断にします。「面白ければいいジャン!」という人は「異形」を「異形」とした演奏も「面白さ」の一つとして受け入れるのに対して、至上主義者は仕立て直しの演奏を蛇蝎のごとく忌み嫌って絶対に認めようとしません。
おそらく、この「交わることのない双曲線」がブルックナーを特別な存在にしているのでしょう。
なお、一部ではこの録音に対して不満を述べておられる方を見かけますが、私にはよく理解できません。確かにステレオ録音の黎明期で試行錯誤の時期だったとは思いますが、音響全体が把握できなようなアンバランスな録音とまでは思えません。クナのブル5では唯一のステレオ録音としての価値は十分にあるクオリティだと思います。