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レスピーギ:ローマの松


カラヤン指揮 フィルハーモニア管弦楽団 1958年1月録音をダウンロード


オーケストレーションの達人



レスピーギという人、オーケストレーションの達人であることは間違いはありません。
 聞こえるか、聞こえないかの微妙で繊細な響きから、おそらくは管弦楽曲史上最大の「ぶっちゃきサウンド」までを含んでいます。言ってみれば、マーラーの凶暴さとドビュッシーの繊細さが一つにまとまって、そして妙に高度なレベルで完成されています。

 しかし、この作品、創作された年代を眺めてみると、色々な思いがわき上がってきます。
 最初に作られたのが、「ローマの噴水」で1916年、次が「ローマの松」で1924年、そして「ローマの祭り」が1928年となっています。
 要は後になるほど、「ぶっちゃき度」がアップしていき、最後の「ローマの祭り」の「主顕祭」ではピークに達します。そこには、最初に作られた「ローマの噴水」の繊細さはどこにもありません。
 そのあまりの下品さに、これだけは録音しなかったカラヤンですが、分かるような気がします。
 
 そう言えば、どこかの外来オケの指揮者がこんな事を言っていましたね。
「どんなにチンタラした演奏でも、最後にドカーンとぶっ放せば、日本の聴衆はそれだけでブラボーと叫んでくれる」
 しかし、これは日本だけの現象ではないようです。
 どうも最後がピアニッシモで終わる曲はプログラムにはかかりにくいようです。(例えば、ブラームスの3番。3楽章はあんなに有名なのに、他の3曲と比べると取り上げられる機会が大変少ないです。これは明らかに終楽章に責任があります)

 この3部作の並びを見ていると、受けるためにはこうするしかないのよ!と言いたげなレスピーギの姿が想像されてしまいます。

 それから、最後に余談ですが、レスピーギはローマ帝国の熱烈な賛美者だったそうです。この作品の変な魅力は、そういう超アナクロの時代劇が、最新のSFXを駆使して繰り広げられるような不思議なギャップにあることも事実です。
 ちなみに彼は自分の作品にこんな解説をつけています。

 第1楽章
ボルゲーゼ荘の松の木の下で子供たちが遊んでいる。子供たちは輪になって踊り、兵隊の真似をし、行進したり、戦争ごっこをする。子供たちは、自分たちの叫び声に酔い、大空の下で駆け回り、夕暮れに帰る燕のように群をなして退散して行く。情景が突然変わる。
 第2楽章
カタコンバに入る道の両側に立ち並ぶ松の木かげ。墓地の奥底から悲しげな声が上って来て、荘重な聖歌のように拡がり、やがて神秘的に消えて行く。』
 第3楽章
大気(風)がゆらいで走る。ジャニコロの丘の松が、清らかな月光に浮かび上がる。ナイチンゲールが鳴く。
 第4楽章:
霧に包まれたアッピア街道の朝明け。高い松並木の陰に、静かな平原の景色が見える。突如として、多数の兵士の足音の響きが、絶え間無いリズムをとって聞えて来る。古代の栄光が詩人の幻想に蘇える。
  ラッパの音がとどろき、太陽の光が射すとともに、執政官の軍隊が現われ、聖なる街道を行進して、首都へ凱旋していく。

圧倒的としか言いようのない演奏

私が聞いた範囲では、この「ローマの松」がカラヤンとフィルハーモニア管が残した録音の中ではもっとも素晴らしいものの一つだと断言できます。
まず誰でも気がつくのは、「アッピア街道の松」の圧倒的な大爆発の素晴らしさです。これは、ステレオ録音という新しい技術に対する懐疑心を一気に払拭してしまうほどのパワーを持った事は容易に想像できます。当時のオーディオマニアは漸くにして一本のスピーカーで再生するシステムを築き上げたところなのに、さらにもう一本追加しなければいけないと言うことでかなり「拒絶感」が強かったと聞きます。しかし、こういう録音をステレオによるシステムで聞かされれば、納得せざるを得なかったでしょう。
すべての楽器が力ずくではなく、しなやかに鳴りきって、その頂点で目も眩むような大爆発を演じて見せたフィルハーモニア管の素晴らしさにも拍手です。

しかし、この演奏が本当に凄いのは、最弱音で語られる部分です。普通のオケは、ピアニッシモになるとついでにテンションまでピアニッシモになってしまうのですが、フィルハーモニア管は絶対にテンションが下がりません。それぞれのパートは響きが薄くなることもなく、己の持ち分をしっかりと果たしています。
確かに、後年のベルリンフィルはもっと凄い!!それは確かですが、50年代においてこれほどのピアニッシモを実現できるオケがどれほどいたでしょうか。この秀逸なピアニッシモの世界があるからこそ、アッピア街道の松の大爆発がより魅力あるものになっています。

さらに、これは私の想像にしかすぎないのですが、カラヤンはモノラルの時代からステレオの時代に入って、オケの響かせ方が変わったように思います。モノラルというのは、基本的に「音像」重視の世界なので、ゴリゴリッという感じで個々の楽器の音像をガッチリと描き出していたように思います。しかし、ステレオの時代にはいると、個々の楽器のガッチリとした音像よりは楽器群が作り出す音の広がりがおいしく感じられるようになります。
カラヤンという人は、そう言うメディアの進歩には誰よりも敏感な人でした。この「ローマの松」もそう言うメディアの進歩がもたらす「福音」をもっともうまく享受できる作品です。そう考えると、この録音自体がそう言う「福音」を享受するための実験的な取り組みだったのかもしれません。
そして、驚くべきは、そう言う実験段階にあった新技術を完全に自分のものにして、ものの見事にオケをコントロールしてかくも素晴らしい響きを実現させたカラヤンという男の凄さです。
まさに、圧倒的としかいいようにない演奏です。