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ブラームス:ピアノ協奏曲第1番 ニ短調 作品15
(P)アルトゥール・ルービンシュタイン:フリッツ・ライナー指揮シカゴ交響楽団 1954年4月17日録音をダウンロード
- Brahms:Piano Concerto No.1 in D minor Op.15 [1.Maestoso]
- Brahms:Piano Concerto No.1 in D minor Op.15 [2.Adagio]
- Brahms:Piano Concerto No.1 in D minor Op.15 [3.Rondo. Allegro non troppo]
交響曲になりそこねた音楽?
木星は太陽になりそこねた惑星だと言われます。その言い方をまねるならば、この協奏曲は交響曲になりそこねた音楽だといえます。
諸説がありますが、この作品はピアノソナタとして着想されたと言われています。それが2台のピアノのための作品に変容し、やがてはその枠にも収まりきらずに、ブラームスはこれを素材として交響曲に仕立て上げようとします。しかし、その試みは挫折をし、結局はピアノ協奏曲という形式におさまったというのです。
実際、第1楽章などではピアノがオケと絡み合うような部分が少ないので、ピアノ伴奏付きの管弦楽曲という雰囲気です。これは、協奏曲と言えば巨匠の名人芸を見せるものと相場が決まっていただけに、当時の人にとっては違和感があったようです。そして、形式的には古典的なたたずまいを持っていたので、新しい音楽を求める進歩的な人々からもそっぽを向かれました。
言ってみれば、流行からも見放され、新しい物好きからも相手にされずで、初演に続くライプティッヒでの演奏会では至って評判が悪かったようです。
より正確に言えば、最悪と言って良い状態だったそうです。
伝えられる話によると演奏終了後に拍手をおくった聴衆はわずか3人だったそうで、その拍手も周囲の制止でかき消されたと言うことですから、ブルックナーの3番以上の悲惨な演奏会だったようです。おまけに、その演奏会のピアニストはブラームス自身だったのですからそのショックたるや大変なものだったようです。
打ちひしがれたブラームスはその後故郷のハンブルクに引きこもってしまったのですからそのショックの大きさがうかがえます。
しかし、初演に続くハンブルクでの演奏会ではそれなりの好評を博し、その後は演奏会を重ねるにつれて評価を高めていくことになりました。因縁のライプティッヒでも14年後に絶賛の拍手で迎えられることになったときのブラームスの胸中はいかばかりだったでしょう。
確かに、大規模なオーケストラを使った作品を書くのはこれが初めてだったので荒っぽい面が残っているのは否定できません。1番の交響曲と比較をすれば、その違いは一目瞭然です。
しかし、そう言う若さゆえの勢いみたいなものが感じ取れるのはブラームスの中ではこの作品ぐらいだけです。ユング君はそう言う荒削りの勢いみたいなものは結構好きなので、ブラームスの作品の中ではかなり「お気に入り」の部類に入る作品です。
演奏、録音ともに文句なしに素晴らしい
これはもう、演奏、録音ともに文句なしに素晴らしい一枚ですね。まずは、演奏から。
何と言っても、ライナー&シカゴ響が圧倒的です。雄大にして濃厚、かつスリリングなまでの推進力に満ちていて、まるで独奏ピアノに襲いかからんばかりです。そして、それを向こうに回してルービンシュタインのピアノは一歩も譲るところがありません。
この時ルービンシュタインは既に67歳ですから既に老境にさしかかろうという年ですが、そのような年齢から危惧されるような衰えは微塵も感じさせず、まさにバリバリと弾きまくっています。
ルービンシュタインは本質的には雰囲気で聞かせるピアニストです。
おそらく、こんな風に言い切ってしまうと反論もあるでしょうが、しかし、彼はそう言うピアニストであったと思います。しかし、それは裏返してみれば、楽譜の中から音楽的にもっとも大切なニュアンスや風情みたいなものを直感的につかみ取って、それをもっとも適切な形で表出する才能を持っていたと言うことであり、ルービンシュタインの天分はにそう言う部分にあったと言えます。
しかし、そんな天分に恵まれて、それほど練習しなくても聴衆を熱狂させることができた男が、ホロヴィッツの登場で大きな衝撃を受けます。
その衝撃故に、30年代に一切のコンサートをキャンセルをして、山にこもって修道僧のようにトレーニングに取り組んだ話はあまりにも有名です。しかし、その精進があったからこそ、戦後のアメリカで彼はホロヴィッツと人気を二分するピアニストとして君臨することになります。
この演奏は、音楽が持っている一番おいしい部分を直感的にかぎ分ける天分が、己を鍛え上げて身につけたホロヴィッツ流のテクニックによって支えられたもっとも幸福にして、素晴らしい成果の一つであったと言えます。
そう言う意味で、一人の音楽家の中に同時に存在することがまれな二つの要素が、奇跡のように同居した演奏と言うことができそうです。
世間的には、彼の引退の年である76年にメータと録音した演奏がベスト盤とされているようですが、あの演奏から聞き取れるのは「雰囲気」だけです。そのために、この作品からはどうしても抜け落ちては困る苛立ち、気負い、憂愁等々の「青春の澱」のようなものが伝わってきません。
やはり、この作品は年寄りの芸にはむかない作品だと思います。
次に録音です。
これはもう、信じがたいほどのクオリティの高さです。
この録音は、RCAがライナー&シカゴ響という強力なコンビを使ってステレオ録音を始めた最初の頃のものです。
このコンビが初めてセッションを組んだのは、「ツァラトゥストラはこう語った」と「英雄の生涯」で、この協奏曲はその一ヶ月後に録音されています。明らかにオケ単独の作品よりは、オケとピアノのバランスを考慮しなければいけない協奏曲の方が技術的には困難です。
しかし、その結果は、ステレオ録音という新しい技術的挑戦に意欲をみなぎらせているスタッフの意気込みが伝わってくるような素晴らしい出来映えになっています。おそらく、これをブラインドで聞かせて1954年の録音だと言うことを言い当てられる人はいないでしょう。
こういうのを聞かされると、オーディオの世界はこの半世紀、本質的な部分では全く進歩していないのではないかと思ってしまいます。