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ベートーベン:交響曲第6番 ヘ長調 作品68「田園」
モントゥー指揮 ウィーンフィル 1958年録音をダウンロード
標題付きの交響曲
よく知られているように、この作品にはベートーベン自身による標題がつけられています。
第1楽章:「田園に到着したときの朗らかな感情の目覚め」
第2楽章:「小川のほとりの情景」
第3楽章:「農民の楽しい集い」
第4楽章:「雷雨、雨」
第5楽章:「牧人の歌、嵐のあとの喜ばしい感謝の感情」
また、第3楽章以降は切れ目なしに演奏されるのも今までない趣向です。
これらの特徴は、このあとのロマン派の時代に引き継がれ大きな影響を与えることになります。
しかし、世間にはベートーベンの音楽をこのような標題で理解するのが我慢できない人が多くて、「そのような標題にとらわれることなく純粋に絶対的な音楽として理解するべきだ!」と宣っています。
このような人は何の論証も抜きに標題音楽は絶対音楽に劣る存在と思っているらしくて、偉大にして神聖なるベートーベンの音楽がレベルの低い「標題音楽」として理解されることが我慢できないようです。ご苦労さんな事です。
しかし、そういう頭でっかちな聴き方をしない普通の聞き手なら、ベートーベンが与えた標題が音楽の雰囲気を実にうまく表現していることに気づくはずです。
前作の5番で人間の内面的世界の劇的な葛藤を描いたベートーベンは、自然という外的世界を描いても一流であったと言うことです。同時期に全く正反対と思えるような作品を創作したのがベートーベンの特長であることはよく知られていますが、ここでもその特徴が発揮されたと言うことでしょう。
またあまり知られていないことですが、残されたスケッチから最終楽章に合唱を導入しようとしたことが指摘されています。
もしそれが実現していたならば、第五の「運命」との対比はよりはっきりした物になったでしょうし、年末がくれば第九ばかり聞かされると言う「苦行(^^;」を味わうこともなかったでしょう。
ちょっと残念なことです。
フルトヴェングラーとは対極にあるような演奏
フルトヴェングラーの「田園」がデモーニッシュな側面を強調した極値だとすれば、モントゥーの「田園」はアポロ的な面を強調した極値のように聞こえます。モントゥーというと、吉田大明神の「彼はまた『より美しい性』からもたっぷり愛され、彼自身も、女性たちやよい食事、よいワイン、そうしてよい音楽を存分に愛する人間に属していた」という言葉がすり込まれていて、何の根拠もなく、華やかで洒落た音楽をした人だと思いこんでいました。
まあ、それほど、私はモントゥーに縁の遠い人だったのです。
しかし、これもまた、こういうサイトをやっている「恩恵」なのですが、いかに縁の遠い人であってもどこかで出会わざるを得ない「機会」を多くの人が与えてくれます。そして、そう言う「機会」を通して、その人の正しい姿に出会わせてくれるのです。
モントゥーの音楽は「華やかで洒落て」いるどころか、驚くほどにそう言う「媚び」みたいなものから遠い音楽だと言うことはすぐに分かりました。評論家先生がよく使う言葉を用いれば、「一切の虚飾を廃した純芸術的な表現」とでも言うのでしょうか。
ただ、これもまた聞いてみればすぐに分かるのですが、「純芸術的な表現」と言っても、そこには切羽詰まった緊張感ではなくて、何とも言えない悠々とした落ち着きが支配しています。
ですから、聞き手は実に落ち着いた気持ちで音楽と向きあうことが出来ます。
聞くところによれば、彼の指揮は非常に動きが小さいにもかかわらず、その精緻さと細やかさで群を抜いていたそうです。ですから、彼はどのオケにいっても楽員から好かれ「独裁者になることなく君臨する」と言われたそうです。
棒の動きだけで全てを伝えるというのは指揮者ならば誰でも出来なければいけないのでしょうが、その当たり前のことをモントゥーほど完璧にこなせた人はほとんどいなかったと言われています。
おそらく、彼の音楽を支配している「悠々感」はそのような高度な技術に裏打ちされた自信の産物なのでしょう。
ここで聞くことの出来る「田園」は、ゆったりと音楽が流れていきながら細部の見通しの良さや細やかさにも不足するところは全くありません。もちろん、聞き手に媚びをうるようなもったいぶった表情付けなどは皆無です。それでも、最終楽章の牧人の歌がピアニッシモで聞こえてきたときにはちょっと涙が出そうになるほど感動させてくれます。
こんなにも素晴らしい演奏が今ではほとんど忘却されているというのは、実に理不尽な話です。