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チャイコフスキー:交響曲 第5番 ホ短調 作品64


セル指揮 クリーブランド管弦楽団 1959年10月23~24日録音をダウンロード

  1. Tchaikovsky:Symphony No.5 in E minor, Op.64 [1.Andante - Allegro con anima]
  2. Tchaikovsky:Symphony No.5 in E minor, Op.64 [2.Andante cantabile con alcuna licenza]
  3. Tchaikovsky:Symphony No.5 in E minor, Op.64 [3.Valse. Allegro moderato]
  4. Tchaikovsky:Symphony No.5 in E minor, Op.64 [4.Finale. Andante maestoso - Allegro vivace]

何故か今ひとつ評価が低いのですが・・・



チャイコフスキーの後期交響曲というと4・5・6番になるのですが、なぜかこの5番は評価が今ひとつ高くないようです。

 4番が持っているある種の激情と6番が持つ深い憂愁。その中間にたつ5番がどこか「中途半端」というわけでしょうか。それから、この最終楽章を表面的効果に終始した音楽、「虚構に続く虚構。すべては虚構」と一部の識者に評されたことも無視できない影響力を持ったのかもしれません。また、作者自身も自分の指揮による初演のあとに「この作品にはこしらえものの不誠実さがある」と語るなど、どうも風向きがよくありません。
 ただ、作曲者自身の思いとは別に一般的には大変好意的に受け入れられ、その様子を見てチャイコフスキー自身も自信を取り戻したことは事実のようです。

 さてユング君はそれではどう思っているの?と聞かれれば「結構好きな作品です!」と明るく答えてしまいます。チャイコフスキーの「聞かせる技術」はやはり大したものです。確かに最終楽章は金管パートの人には重労働かもしれませんが、聞いている方にとっては実に爽快です。第2楽章のメランコリックな雰囲気も程良くスパイスが利いているし、第3楽章にワルツ形式を持ってきたのも面白い試みです。
 そして第1楽章はソナタ形式の音楽としては実に立派な音楽として響きます。
 確かに4番と比べるとある種の弱さというか、説得力のなさみたいなものも感じますが、同時代の民族主義的的な作曲家たちと比べると、そういう聞かせ上手な点については頭一つ抜けていると言わざるを得ません。
 いかがなものでしょうか?

美人すぎて愛想がない・・・?

ひと言で言えば、きわめて直線的なチャイコフスキーであり、スラブ的な憂愁はかけらもありません。もう少し正確に言えば、そのような「演出」や「臭み」は徹底的に排除して、チャイコフスキーの交響曲をベートーベン以降の西洋音楽の王道とも言うべき構成的な音楽として再現しています。ですから、その再現の方向性はムラヴィンスキーとも共通しています。
しかし、結果として聞こえてくる音楽にはムラヴィンスキーのような凄味はなくて、かなり軽めでスタイリッシュなチャイコフスキー、言葉をかえれば「お洒落なチャイコフスキー」です。
こんな書き方をすると、セルをムラヴィンスキーの下に置いているように思えるかもしれません。
そして、それは半分はその通りであり、残りの半分は少しばかり言い訳が必要です。その言い訳とは、この二人のチャイコフスキーに対する思い入れの差です。

ムラヴィンスキーのチャイコフスキーがまるでベートーベンのように響くのは、ムラヴィンスキーがチャイコフスキーの交響曲がベートーベンのそれに匹敵するほどの偉大な音楽であると確信しているからです。しかし、セルはチャイコフスキーの音楽を構成的な音楽として再現しても、それがベートーベンに匹敵するほどの音楽だとまでは思っていません。
この差は決定的です。
しかし、「チャイコフスキーの交響曲がベートーベンのそれに匹敵するほどの偉大な音楽であると確信」していたのはムラヴィンスキーくらいでしょうから、決してセルのスタンスが非難に値するものというわけではありません。それが残り半分の言い訳です。

ただ、そのお洒落の背景に潜む技術的な献身は凄いものがあります。
オケの全ての楽器が完璧なバランスで鳴り響いていて、その手綱を握るセルの統率力には凄いものがあります。
しかし、人間というものは贅沢なもので、その完璧さゆえにある種の物足りなさを感じている自分を否定できません。それは、あまりにも完璧に整いすぎた美人というものがかえって愛想がなさ過ぎて魅力に欠けるというのに似ています。
おそらく、あまりにも完璧なバランスで鳴っているがゆえに、結果として全体の響きがモノトーンに聞こえるのが原因なんだろうと思います。
もちろん、そんなことはセルにしてみれば百も承知のことでしょう。そして、それを承知の上で、彼にとってのオケの理想の響きとはまさにこのようなものだったのでしょう。実際、この鬼の統率によってもたらされる響きの等質性は最後のコーダが鳴り響くまで揺らぐことはなく、さらには、その等質性を堅持したままで微妙にテンポを動かしたり、細かい表情づけをしたりして作品に生命力を与えています。
そのとてつもない技術的な献身は十分に理解しながら、それでも美人すぎて愛想がないな・・・などと恐れ多いことをほざいてしまうのです。

なお、このセルのチャイ5にはスコアにはないシンバルがコーダになだれ込むところで鳴り響きます。
最近はセルのことをがちがちの原典尊重主義者だという誤解はずいぶん薄れてきましたが、そのような誤解に対する格好の証拠がここにあります。

詳しくは、こちらに少しばかり書いたことがありますので、興味ある方は一読してみてください。

ジョージ・セル指揮の チャイコフスキーの5番