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ベートーベン:交響曲第5番 ハ短調 作品67「運命」


クレンペラー指揮 フィルハーモニア管 1959年10月録音をダウンロード


極限まで無駄をそぎ落とした音楽



今更何も言う必要がないほどの有名な作品です。
クラシック音楽に何の興味がない人でも、この作品の冒頭を知らない人はないでしょう。

交響曲と言えば「運命」、クラシック音楽と言えば「運命」です。

この作品は第3番の交響曲「エロイカ」が完成したすぐあとに着手されています。スケッチにまでさかのぼるとエロイカの創作時期とも重なると言われます。(1803年にこの作品のスケッチと思われる物があるそうです。ちなみにエロイカは1803?4年にかけて創作されています。)

しかし、ベートーベンはこの作品の創作を一時的に中断をして第4番の交響曲を作曲しています。これには、とある伯爵未亡人との恋愛が関係していると言われています。
そして幸か不幸か、この恋愛が破局に向かう中でベートーベンはこの運命の創作活動に舞い戻ってきます。

そういう意味では、本格的に創作活動に着手されたのは1807年で、完成はその翌年ですが、全体を見渡してみると完成までにかなりの年月を要した作品だと言えます。そして、ベートーベンは決して筆の早い人ではなかったのですが、これほどまでに時間を要した作品は数えるほどです。

その理由は、この作品の特徴となっている緊密きわまる構成とその無駄のなさにあります。
エロイカと比べてみるとその違いは歴然としています。もっとも、その整理しきれない部分が渾然として存在しているところにエロイカの魅力があるのですが、運命の魅力は極限にまで整理され尽くしたところにあると言えます。
それだけに、創作には多大な苦労と時間を要したのでしょう。

それ以後の時代を眺めてみても、これほどまでに無駄の少ない作品は新ウィーン楽派と言われたベルクやウェーベルンが登場するまではちょっと思い当たりません。(多少方向性は異なるでしょうが、・・・だいぶ違うかな?)

それから、それまでの交響曲と比べると楽器が増やされている点も重要です。
その増やされた楽器は第4楽章で一気に登場して、音色においても音量においても今までにない幅の広がりをもたらして、絶大な効果をあげています。
これもまたこの作品が広く愛される一因ともなっています。

人類の貴重な遺産とも言うべき演奏

本当に「録音」だけで演奏を評価をするのは難しいです。これは、再生のレベルが上がるたびに痛感するのですが、今回もファンレスのシンプル構成のPCに「Voyage MPD」を組み込んだシステムで聞いてみて、また同じようにつぶやいてしまいました。

本当に録音だけで演奏と演奏家を評価するのは難しい。

クレンペラーと言えば、巨大な構築物ととして音楽を仕上げていくことが高く評価される反面、音色に関しては固くて素っ気なく、時にはぎすぎすした感じがすると言われてきました。つまりは、「感覚的なヨロコビ」が乏しいと思われてきました。
しかし、クラシック音楽の世界とは不思議なもので、そう言う「官能的なヨロコビ」が乏しいことが、逆にクレンペラーの演奏に「高い精神性」という刻印を刻み込む根拠ともなってきたのです。
ホントにクラシック音楽は不思議な世界で、聞いてすぐに心引かれるようなメロディや華やかな音色、甘い響きなどはそう言う「高い精神性」を阻害するものとして「厳しく排除」されるのです。とにかく精神性に溢れた演奏というのは、まずは聞いても「面白くもなければ華やかでもない」事が絶対的な条件として求められてきたのです。つまりは、聞いて面白くなければ面白くないほど、そして響きは地味であれば地味であるほど「高い精神性」が担保されるのです。
そして、そう言う地味で面白くもない演奏をじっと聴き続けていくうちに、その中にふとかいま見られた「高い精神性」に心ふるわすというのが優れたクラシック音楽の聞き手とされてきました。

そう言う意味では、一見するとぶっきらぼうで素っ気なく、響きも固くて時にはぎすぎすした感じのするクレンペラーの演奏などは、まさに「高い精神性」に溢れた演奏として高く評価されてきたのです。
まあ、こんな書き方をするとかなり嫌味がきついですし、今時こんなスタンスで音楽を聴いている人は少ないと思いますが、一昔前の「教養」としてクラシック音楽を聴いていたような人々はまさにこんな雰囲気だったのです。そして、そう言う亡霊は、今もクラシック音楽界の中を未だに彷徨っています。

なぜ今さらこんな事を書いたのかというと、ファンレスのシンプル構成のPCに「Voyage MPD」を組み込んだシステムでクレンペラーの演奏を聴くと、何とその響きは固くもなければギスギスもしていないのです。もちろん、華やかな響きではありませんが、十分にしなやかで透明感のある響きであることに気づかされます。
そして、演奏も素っ気ないどころか、至る所で細やかな表情づけが施されていることに気づかされます。もちろん、基本的なスタンスはスタティックなものであり大げさに身振りや手振りを交えるような演奏ではありませんが、決してぶっきらぼうではないことがはっきりと分かります。
つまり、その演奏は十分に「感覚的なヨロコビ」に満ちたものとなっているのです。
それは、今回まとめてアップした4番にも5番に共通して言えることですし、その他のベートーベン演奏にも共通して言えることです。

そして、考えてみれば容易に気づくことですが、耳の肥えた当時のイギリスの聴衆が固くて素っ気ない響きでぶっきらぼうに演奏したベートーベンに「ブラボー」を送るはずはないのです。
確かに、これは「音のサーカス」のような演奏ではありませんが、それと同じくらい「高い精神性」だけで成り立っている演奏でもありません。そして、このクレンペラーという一代の変人が残してくれたステレオ録音によるベートーベン演奏が、疑いもなく人類の貴重な遺産であったことを確信させてくれます。