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マーラー:交響曲第4番
ライナー指揮 シカゴ交響楽団 1958年12月6,8日録音をダウンロード
マーラーの間奏曲・・・?
この作品をそのようにいった人がいました。
2番・3番と巨大化の方向をたどったマーラーの作品が、ここでその方向性を変えます。ご存じのように、この後に続く5〜7番は声楽を伴わない器楽の3部作と言われるものです。
この第4番はそれらとは違って第4楽章にソプラノの独唱を伴いますが、それは前2作のように、声楽の追加によってよりいっそうの表現の巨大化を求めたものとは明らかに異なります。
牧歌的小景とか天国的な夢想と称されるこの作品の雰囲気をより高めるために、実に細やかな歌となっています。まさに、前期の2,3番と中期の4〜7番をつなぐ「間奏曲」というのはまさにこの作品を言い表すのにはぴったりの表現かもしれません。
しかし、そこはマーラーの事ですから、間奏曲と言っても普通に演奏すれば1時間近い作品ですから、一般的な交響曲のサイズから言えばかなりの大作であることは事実です。
とりわけ、第3楽章の美しいメロディは、ユング君の見るところでは、第3番の最終楽章と並んでマーラーが書いたもっとも美しい音楽の一つだと思います。
「夜明け前」の録音
まず驚いたのは、1958年に録音されたにもかかわらず、初出が1960年だったという事実です。ライナー&シカゴ響という当時の「黄金コンビ」で録音されたマーラーのシンフォニーが2年間も「塩漬け」にされていたのです。1980年代以降のマーラーブームを経過した今日から見ると信じられない事ですが、50年代後半におけるマーラーのポジションを如実に示している事実だと言えます。
マーラー復活の狼煙は疑いもなくバーンスタイン&ニューヨークフィルによる全集の完成です。その全集は1960年に4番のシンフォニが録音されることで第一歩が踏み出されます。
それをもってマーラー受容の分岐点とするならば、このライナーの録音はまさに「夜明け前」の録音だと言えます。
この録音を聞くと、ライナーはマーラーのシンフォニーをベートーベン以降の交響曲の延長線上において構築しようとしていることが手に取るように分かります。
しかし、だれが言った言葉かは忘れましたが、マーラーのシンフォニーの本質は「デブ専」にあります。
ベートーベン以降の交響曲仕様の延長線上でとらえてみると、マーラーのシンフォニーはあまりにも脂肪過多でブヨブヨと肥大しすぎているのがの特徴です。そして、その肥大した脂肪過多の部分にこそマーラーの本質があって、その肥大した部分が愛せないとマーラーはマーラーでなくなるのです。
しかし、マーラーの「夜明け前」の時代にあっては、特にライナーやセルのようなタイプの指揮者にあっては、とてもではないがそのような「おデブちゃん」は愛せるものではなかったようです。もちろん4番シンフォニーはマーラー一族の中では一番スリムな方な娘さんなのですがそれでも彼らの目からすればあまりにも太りすぎているのです。
ですから、彼らはその余分な脂肪を削ぎ落としにかかります。
セルはエステティシャンに変身して徹底的にだぶついた脂肪を削ぎ落としにかかります。つまり、本来は整理してはいけない部分まで整理してしまって、少しおデブちゃんだった4番シンフォニーを実にすっきりとした美人に変身させています。そして、それはそれで美しい演奏ではあるのですが、「夜明け以降」の時代にあってはいささか違和感を感じてしまう人もいるでしょう。
しかし、このライナーとなると、彼はエステティシャンでは我慢できなかったようで、まるでボクシングジムのトレーナーのように変身して、だぶついた脂肪を筋肉へと鍛え上げてしまっています。よって、「おデブちゃん」の4番シンフォニーはマラー演奏史上最もマッチョな娘さんに変身を遂げています。
ですから、今日的なマーラー像からすれば、そのあまりにも逞しい姿はセルの演奏以上に違和感を感じざるをえないでしょう。その意味では、特にこのライナーの演奏などは、今日的視点から見れば「勘違い」以外の何物でもないでしょう。
しかし、少しひねった見方をすれば、「価値観」の定まる前の「夜明け前」の時代というのはなかなか「何でもあり」で面白い時代だったようにも思えてきます。今時、こんな風にマーラーを演奏する人はいないでしょうし。しかし、「定まった価値観」というものを一度洗い落としてこういう演奏を聴いてみると、これはこれで「有り」かなとも思えてきます。
少なくとも、今では絶対に聞くことのできないタイプの演奏であることは事実であり、その事だけでも一度は聞いてみる価値がると言えるでしょう。