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ベートーベン:交響曲第8番 ヘ長調 作品93


シューリヒト指揮 パリ音楽院管弦楽団 1957年10月7&10日録音をダウンロード


谷間に咲く花、なんて言わないでください。



初期の1番・2番をのぞけば、もっとも影が薄いのがこの8番の交響曲です。どうも大曲にはさまれると分が悪いようで、4番の交響曲にもにたようなことがいえます。

 しかし、4番の方は、カルロス・クライバーによるすばらしい演奏によって、その真価が多くの人に知られるようになりました。それだけが原因とは思いませんが、最近ではけっこうな人気曲になっています。

 たしかに、第一楽章の瞑想的な序奏部分から、第1主題が一気にはじけ出すところなど、もっと早くから人気が出ても不思議でない華やかな要素をもっています。

 それに比べると、8番は地味なだけにますます影の薄さが目立ちます。

 おまけに、交響曲の世界で8番という数字は、大曲、人気曲が多い数字です。

 マーラーの8番は「千人の交響曲」というとんでもない大編成の曲です。
 ブルックナーの8番についてはなんの説明もいりません。
 シューベルトやドヴォルザークの8番は、ともに大変な人気曲です。

 8番という数字は野球にたとえれば、3番、4番バッターに匹敵するようなスター選手が並んでいます。そんな中で、ベートーベンの8番はその番号通りの8番バッターです。これで守備位置がライトだったら最低です。

 しかし、ユング君の見るところ、彼は「8番、ライト」ではなく、守備の要であるショートかセカンドを守っているようです。
 確かに、野球チーム「ベートーベン」を代表するスター選手ではありませんが、玄人をうならせる渋いプレーを確実にこなす「いぶし銀」の選手であることは間違いありません。

 急に話がシビアになりますが、この作品の真価は、リズム動機による交響曲の構築という命題に対する、もう一つの解答だと言う点にあります。
 もちろん、第1の解答は7番の交響曲ですが、この8番もそれに劣らぬすばらしい解答となっています。ただし、7番がこの上もなく華やかな解答だったのに対して、8番は分かる人にしか分からないと言う玄人好みの作品になっているところに、両者の違いがあります。

 そして、「スター指揮者」と呼ばれるような人よりは、いわゆる「玄人好みの指揮者」の方が、この曲ですばらしい演奏を聞かせてくれると言うのも興味深い事実です。
 そして、そう言う人の演奏でこの8番を聞くと、決してこの曲が「小粋でしゃれた交響曲」などではなく、疑いもなく後期のベートーベンを代表する堂々たるシンフォニーであることに気づかせてくれます。

ステンドグラスのようなベートーヴェン

Google先生にこのシューリヒトのベートーベンの評判を聞いてみると、意外なほどに好意的なので驚きました。
「演奏のきびきびとした活きの良さ、音と音の絡み合いの妙、とにかく聴いていて音楽の素晴らしさに感動した。」とか、「透明感のある響き、まるでステンドグラスのようなベートーヴェンだと思います。」等々、なかなかに好意的です。

ただ、問題は「録音」です。
正直言ってこれは「犯罪的」と言っていいでしょう。
EMIがステレオ録音に懐疑的だったのは分かりますので、50年代後半であるにもかかわらずモノラルで録音されたことは目を瞑りましょう。実際、当時のモノラル録音は技術的には完成の域に達していて、「モノラル録音=音質が悪い」という公式は成り立ちません。それどころか、実験段階にあった当時のステレオ録音と比較すると、完成の域に達したモノラル録音の方が音質的には好ましく思えるものも少なくなかったのです。
たとえば、55?56年にモノラルで録音されたカラヤン&フィルハーモニアの演奏などは、下手なステレオ録音などは足元にも及ばないような見事さです。
しかし、このシューリヒトの録音に関しては、何かの間違いではないかと思えるほどに録音のクオリティが低いのです。それは、「モノラルで録音されたから音が悪い」のではなくて、「完成の域に達していたモノラルで録音したにもかかわらずこの体たらく」であることに「犯罪」のにおいを感じるのです。

おそらく、EMIはやる気がなかったのでしょう。そうでなければ、こんなひどい録音でリリースされることなど考えられません。
「隣の部屋でならしてる音楽を壁に耳あてて聴くような音質」とまでは酷評しませんが、この時期のモノラル録音の完成度を知るものならば、大いに「怒り」を感じるクオリティであることは事実です。

しかし、そんな録音のマイナスは割り引いても、演奏の面白さは一級品です。
これは、フルトヴェングラーやクナのベートーベン演奏からは対極にある演奏であることはすぐに分かりますが、かといってトスカニーニやセルのベートーベンと同族かと言われるとそれも少し違います。
そこで気づいたのが、もしかしたらこれと一番対極にあるのは晩年のカラヤンかもしれないということです。そう、あの「カラヤン美学」から最も遠い位置にある演奏がこのシューリヒトではないかと思い至ったのです。

カラヤンの特長はめいっぱいに「音価」を長くとって、それを徹底的に磨き抜くことです。たとえば、晩年に録音したシベ2の第4楽章などは、別の音楽に聞こえるほどに音価を長くとって、まるでハリウッドの映画音楽みたいになっています。
それに対して、ここでのシューリヒトは限界までに音価を短く切り詰めています。たとえば、エロイカの冒頭などは切り詰めを通り越して切り上げてるようにすら聞こえます。結果として、聞こえてくる音楽はとても「軽く」なります。当然のことながら、人の官能に訴えかける魅力は非常に乏しくなります。
しかし、そう言う俗耳に入りやすい「分かりやすさ」を犠牲にしてシューリヒトが獲得しようとしたのは明晰でクリアなベートーベン像だったことは明らかです。ただし、そのベートーベンはトスカニーニやセルのような甲冑を身にまとったベートーベンではなくて、「透明感のある響き、まるでステンドグラスのようなベートーヴェン(・・・うーん、実に上手いこというものです!!」です。

とは言え、さすがに「軽すぎるだろう・・・(^^;・・・は思わざるを得ないものもありました。もちろん、そのあたりの感覚は人それぞれでしょうから、他の人にそのような感覚を押しつけるつもりはありませんが・・・。
ただし、「田園」「合唱付き」は文句なしに素晴らしいと思います。
特に第九は「犯罪的」とも言える録音の中では一番被害が少ないように思いますし、これだけがステレオで録音された音源が存在するようで、別のレーベルからそのステレオ録音によるCDも発売されているようです。