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ショパン:スケルツォ集(全4曲)


P:ルービンシュタイン1959年3月25&26日録音をダウンロード


優雅でサロン的なショパンの姿はどこを探しても見つかりません



スケルツォと言う言葉は本来冗談を意味しました。それは、優雅であったメヌエットをベートーベンが自らの交響曲の第3楽章に用いるためにチューンナップした音楽として登場したのです。
メヌエットなどと言う優雅なダンス音楽が、人生の重みの全てを引き受けたようなベートーベンの交響曲の一つの楽章を支えることなど出来ようはずがありません。よって、彼はメヌエットに諧謔という人生のスパイスをきかせてスケルツォという音楽を生み出したのです。
もちろん、音楽史の重箱をつつけば、ベートーベン以前にもこの形式は存在したようですが、スケルツォをスケルツォたらしめたのは疑いもなくベートーベンです。
ですから、この音楽は「冗談」というよりは、人生が抱えこまざるを得ない「怒りや絶望」などというものを、少しばかり斜に構えて皮肉りながら「笑うしかない」というような音楽になりました。

そして、このベートーベンが生み出した形式は、この後ロマン派の音楽家によって様々に引き継がれていきます。

たとえば、メンデルスゾーンはこれをカプリッチョ的なものに変容させました。それはスケルツォが内包している「笑うしかない」という側面をより特化させた音楽と言えるでしょうか。つまり、スケルツォ(冗談)はカプリッチョ(気まぐれ)に変容し、軽やかで空想に満ちたものとなりました。
それに対して、ショパンは人生における「怒りや絶望」をこの形式の音楽にたたき込みました。そこには笑いの陰も存在しません。ですから、名称は「スケルツォ」のままですがそれはベートーベンのスケルツォとは全く異なった音楽になっています。
おそらく、スケルツォこそは、ショパンの全作品のなかでもっとも陰鬱な作品であり、同時にショパンという人の内面をもっともあからさまにさらけ出した作品と言えるでしょう。
ここには、優雅でサロン的なショパンの姿はどこを探しても見つかりません。

スケルツォ第1番 ロ短調 作品20
まさにショパンの内面に渦巻く怒りと絶望が吐露された作品です。1831年に作曲された事を考えると、ここには疑いもなくロシア軍の侵攻によるワルシャワ陥落が反映しています。
なお、この作品は渦巻くよう怒りに彩られた主部に対して、中間部で美しい旋律が流れます。この旋律はポーランドのクリスマス・キャロル「眠れ、幼子イエス」よりとられたものらしいです。この対比は実に見事です。

スケルツォ第2番 変ロ短調 作品31
ショパンのスケルツォと言えばこの第2番がもっとも有名です。その理由は言うまでもなく耳に残りやすい旋律と全体の構成の分かりやすさです。
冒頭部部の「問いかけと答え」の部分は、一部で指摘されているようにジュピターの引用になっています。そして、この問いかけが中間部で展開されて、最後にこれが圧倒的コーダという形で大団円を迎えます。
やはり人気を得るには分かりやすさが何よりです。

スケルツォ第3番 嬰ハ短調 作品39
ジョルジュ・サンドとマジョルカ島へ避難した頃はショパンにとっては最悪の時期の一つでした。この時期は自らの作品について語ることはほとんどなかったのですが、その数少ない例外の一つがこの作品です。
聞くだけの人にとってはあまり気づかないことなのですが、この作品には10度の和音が登場します。自分は手が小さいのでオクターブ以上の和音をいつもアルペジョで弾いていたショパンにとっては珍しいことだそうです。ですから、これはショパンの作品には珍しくヴィルトゥオーゾ風のマッチョな音楽になっています。

スケルツォ第4番 ホ長調 作品54
これは2番と並んで人気のある作品です。3番がマッチョな外見をしながらどこか病んだような雰囲気を漂わせていたのに対して、これは非常に快活で雄大な音楽になっているからでしょう。
決して宿痾の病だった結核がよくなったわけでなく、逆に病状は悪化していたわけですから実に不思議な話です。
しかし、トリオのメランコリックな旋律を聴くとき、私たちはそこから暗い影を聞き取ることは出来ません。さらに、長いスケールを駆け上がって結ばれるコーダを聞くとき、まさにショパンの一つの絶頂がここにあったという思いにさせてくれます。

奇妙な同居

ルービンシュタインというピアニストについてはかつてこんな風に書いたことがあります。
「ルービンシュタインはいわゆる天才肌のピアニストでした。
若くしてその能力を開花させ、おまけにあまり練習しなくてもそこそこは聴衆を満足させることの出来る能力を持っていました。その事をルービンシュタイン自身もよく知っており、若い頃の彼は練習嫌いの遊び人ピアニストでした。」

つまり、彼は20世紀前半の古き良き時代のピアニストの数少ない生き残りとも言うべき人でした。ただ、そう言う種族がほとんど死に絶えていく中で彼だけが生き残れたのは、ホロヴィッツへのコンプレックスと、そのコンプレックスを克服するために「修行僧のように」一からピアノのレッスンに取り組んだからでした。
ですから、彼のピアノを聞くと、強靱にピアノを鳴り響かせる確かなテクニックを感じ取ることができます。それは、彼が己に課した鍛錬の賜であり、その結果として彼の音楽は彼がかつて属していた古き良き時代の音楽とは似てもにつかないもののように聞こえます。
しかし、その反面、その強靱なテクニックによって構築される音楽は、同時代の若手ピアニストたちによる即物主義的な音楽ともどこか雰囲気が異なります。それは、どれほどテクニックが前面に出てきたとしても、その根底に、「音楽とは人を喜ばせるものだ」という信念が横たわっているからでしょう。

ピアニストの歴史をホロヴィッツで区分することには異論もあるでしょうが、あえてその区分を持ち込めば、ルービンシュタインというピアニストの中には、ホロヴィッツ以前と、ホロヴィッツ以後が奇妙な調和を保って同居していると言えるのかもしれません。
そして、その奇妙な同居ゆえに、彼のピアノは素晴らしいとは思うのだが、何を聞いてもどこか物足りないところが残るという感想が出るのもやむを得ないのかもしれません。
しかし、この奇妙な同居がギシギシと軋みを立てていた30年代の前半には、その緊張関係ゆえに素晴らしい音楽となって昇華していたように思います。ただ、このようなステレオ録音の時代になると、この奇妙な同居はすっかり安定してしまって、どこか平均点80点の音楽になってしまったように思います。
もちろん、常に80点をたたき出すというのは凄いことなのですが、聞き手は常に貪欲です。