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シベリウス:交響曲第2番 ニ長調 op.43

オーマンディ指揮 フィラデルフィア管弦楽団 1957年3月録音




シベリウスの田園交響曲?

シベリウスの作品の中ではフィンランディアと並んでもっとも有名な作品です。そして、シベリウスの田園交響曲と呼ばれることもあります。もちろん、ベートーベンの第6番を念頭に置いた比喩ですが、あちらがウィーン郊外の伸びやかな田園風景だとすれば、こちらは疑いもなく森と湖に囲まれたフィンランドの田園風景です。
さらに、この作品にはフィンランドの解放賛歌としての側面もあります。重々しい第2楽章と荒々しい第3楽章を受けた最終楽章が壮麗なフィナーレで結ばれるところが、ロシアの圧政に苦しむフィンランド民衆の解放への思いを代弁しているというもので、この解釈はシベリウスの権威と見なされていたカヤヌスが言い出したものだけに広く受け入れられました。
もっとも、シベリウス本人はその様な解釈を否定していたようです。
言うまでもないことですが、この作品の暗から明へというスタイルはベートーベン以降綿々と受け継がれてきた古典的な交響曲の常套手段ですから、シベリウスは自分の作品をフィンランドの解放というような時事的な際物としてではなく、その様な交響曲の系譜に連なるものとして受け取って欲しかったのかもしれません。
しかし、芸術というものは、それが一度生み出されて人々の中に投げ込まれれば、作曲家の思いから離れて人々が求めるような受け入れ方をされることを拒むことはできません。シベリウスの思いがどこにあろうと、カヤヌスを初めとしたフィンランドの人々がこの作品に自らの独立への思いを代弁するものとしてとらえたとしても、それを否定することはできないと思います。

この作品は第1番の初演が大成功で終わるとすぐに着手されたようですが、本格的取り組まれたのはアクセル・カルペラン男爵の尽力で実現したイタリア旅行においてでした。
この作品の中に横溢している牧歌的で伸びやかな雰囲気は、明らかにイタリアの雰囲気が色濃く反映しています。さらに、彼がイタリア滞在中にふれたこの国の文化や歴史もこの作品に多くのインスピレーションを与えたようです。よく言われるのは第2楽章の第1主題で、ここにはドンファン伝説が影響を与えていると言われています。
しかし、結局はイタリア滞在中にこの作品を完成させることができなかったシベリウスは、フィンランドに帰国したあとも精力的に作曲活動を続けて、イタリア旅行の年となった1901年の末に完成させます。
一度聞けば誰でも分かるように、この作品は極めて少ない要素で作られています。そのため、全体として非常に見通しのよいすっきりとした音楽になっているのですが、それが逆にいささか食い足りなさも感じる原因となっているようです。その昔、この作品を初めて聞いた私の友人は最終楽章を評して「何だかハリウッドの映画音楽みたい」とのたまいました。先入観のない素人の意見は意外と鋭いものです。
正直言うと、ユング君は若い頃はこの作品はとても大好きでよく聴いたものですが、最近はすっかりご無沙汰していました。やはり、食い足りないんですね。皆さんはいかがなものでしょうか?

ヒンヤリ感はありませんが・・・


こういうサイトを管理していると、いろいろな録音の初出年を確定するために50~60年代のカタログを見つけるたびに入手しています。そう言うカタログを見ていると、オーマンディの録音があふれていることに気づかされます。その勢いはカラヤンにも匹敵するほどで、この時代におけるオーマンディ&フィラデルフィア管のポジションの高さには驚かされます。
ところが、そう言う膨大な録音は、今となってはほとんど入手不可能になっています。
ためしに、たとえばHMVなどのサイトで「オーマンディ」とか「Ormandy」で検索してみても、彼らが一番勢いがあった50~60年代の録音はほとんどヒットしてきません。その凋落ぶりには驚かされるばかりです。

そんな中で、今も何とか現役盤として残っているのが、このシベリウスの2番です。
オーマンディとシベリウスの結びつきに関しては多くの逸話が残っていて、シベリウス自身もオーマンディとフィラデルフィア管による演奏には満足の意を表していたと伝えられています。

ただし、個人的には、オーマンディのシベリウスを聴いて感心したのは「4つの伝説曲」くらいで、正直言って今回取り上げた2番の交響曲もあまり感心はしませんでした。
まず何よりも、この演奏からはシベリウスには絶対必要だと思われる、「ヒンヤリ感」みたいなものは皆無です。シベリウスの音楽というのは、多少は下手くそくらいのオケが必死に演奏してる方が雰囲気は出るようで、たとえば、60年代初頭に録音された渡邉暁雄と日フィルによる全集なんかはその典型です。

ただし、シベリウスの音楽にそのようなものを求めない人もいるのは当然で、特にチャイコフスキーからの影響が色濃く残っているこのような作品だと、ひたすらパワフルにオケを鳴らしきるのは決して間違いではないと思います。たとえば、これとほとんど同じコンセプトで演奏していたのが、80年代のカラヤン&ベルリンフィルでした。
実は、今回のオーマンディの演奏を聴いていて、真っ先に頭に思い浮かんだのがそのカラヤンの演奏でした。特に、音価を目一杯にとって、まるでハリウッドの映画音楽みたいに盛り上げていく最終楽章のやり方は、ここに源流があったのか、と膝を打ちました。ただし、オケの能力には大きな差がありますので、カラヤンの場合は白けてしまうところを、オーマンディの場合はギリギリのところで踏みとどまっているような気はします。

ホントに、シベリスというのは、上手ければいいと言うのではないようです。