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モーツァルト:フィガロの結婚
エーリッヒ・クライバー指揮 ウィーンフィル ウィーン国立歌劇場合唱団 Bs:シエピ Br:ベル S:カーザ S:ギューデン他 1955年録音をダウンロード
神が降臨する音楽
モーツァルトの全作品の中から一つ選べと言われればユング君はためらわずにこれを選びます。クラシック音楽の中から一つ選べと言われれば少し考え込みますが、3つと言われればその中に間違いなく入ります。(後の二つは、バッハのマタイとベートーベンのエロイカ)
最初の序曲を聞くだけで心ははずみます。そして、次から次へとステキなアリアが満載されていますし、様々なバリエーションによる声のアンサンブルも堪能できます。物語の展開は「無茶苦茶」ですが、そんなことはいっこうに気にもならず、次から次へと展開されていく「音楽のフルコース」に身をひたしているだけでこの上もなく幸せになれます。
しかし、これだけで終わっていれば数あるモーツァルトの傑作の一つというポジションにとどまったはずです。ドン・ジョバンニのドラマティックの極みとも言うべき「地獄落ち」を前にすれば、その首位の座を譲らざるをえないかもしれません。次々と展開されるアリアの美しさなら「コシ」の方が上かもしれません。「魔笛」のハラハラドキドキのメルヘン大活劇だって捨てがたいのです。
でも、ユング君がそう言うとびきり上等の数あるオペラの中で「フィガロ」を偏愛するのは、フィガロにはあって他の作品にはないものがあるからです。
それは、(こんな言い方をすると、ユング君はちょっと、アブナクなってきているんではないかと懸念されそうですが・・・)フィガロには神が降臨する場面があるからです。現世で鳴り響いている音楽であるにもかかわらず、フィナーレで伯爵が「ゆるせ奥方よ・・・」と歌い出したとたんに、周囲の景色は一変しそこに神が降臨してくるのを感じ取れます。
映画「アマデウス」でサリエリが語ったように、モーツァルトという貧相な若者を通して神がすべてのものに「許し」を与える音楽です。恥ずかしながら、ユング君はこの場面をきくたびに涙が溢れてきます。日頃は神など信じようともしない人間なのですから、「パブロフの犬」と言えばそれまでですが、何か神秘的な力を感じさせてくれる音楽です。
なお、お話のあらすじはもう何がなんだか分からないほどに込み入っていてハチャメチャですからここでは省きます。興味のある方は、「フィガロ 結婚」とでもしてGoogleしてもらえばいくらでもヒットするでしょうから、詳しいことはそちらのサイトに譲ります。
追記
最近、面白い文章を発見しました。それは、フィガロの自筆譜を厳密に調査することでフィガロの創作過程を明らかにした研究です。研究そのものは古いものなのでご存じの方も多いと思いますが、初めて見たユング君にとってはなかなかに興味深いものでした。
まず、驚いたのはモーツァルトは第1幕から順番に書いていったのではないと言うことです。そうではなくて、このオペラを構成する単位をその性格に基づいて4つに分け(アリア、話の展開に主要な位置を占める音楽、劇的な性格を持った音楽、そして滑稽な音楽)、それらを個別に作曲をしていったというのです。そして出来上がったそれぞれのパーツを台本にそって順序よく並べ替えを行い、最後にそれらがスムーズに流れていくように修正をほどこして完成させたというのです。
ですから、ハチャメチャに見える台本なのですが、実はモーツァルトとダ・ポンテによる緻密な協力の結果によるもので、一頃よく言われた「もう少しまともな台本なら、もっと素晴らしい音楽に仕上がっていただろう!」というのは間違いのようなのです。
そして、映画「アマデウス」の中で、あまりの作品の長さに「あくび」をしてしまった皇帝陛下が、もう少しコンパクトに不要な音符を削れと言われた事に対して、ムキになって反論したモーツァルトの描き方は実に正しい描きかただったとも言えます。
このような綿密な計画に基づいて創作されたオペラなのですから、どの部分を削っても作品そのものが破綻してしまいます。
なるほど、「奇跡」というものは緻密な「実務」の果てに実現するものかと納得したユング君でした。
黄金の五〇年代をパッケージした録音
私にとってのフィガロの結婚はベーム盤です。そして、それはきっと生涯変わらないだろうな、ということを確信させてくれたのがこのクライバー盤です。もちろん、クライバーと言ってもカルロスの方ではなくて親父のエーリッヒの方です。この1955年にステレオ録音されたフィガロの結婚は、モーツァルトの生誕200年を記念して企画された様々な録音の中の一つです。エーリッヒはこの録音の半年後に亡くなりますから、こういう形でエーリッヒの演奏がステレオ録音で残ったことは奇跡に近いような僥倖でした。そして、それだけでなく、この「奇跡」はウィーンフィルが未だにウィーンフィルであった50年代の輝きと、シエピやギューデンという、この時代を代表したすばらしい歌声を優れたクオリティで缶詰にしてくれました。
この録音の魅力は、なんと言ってもウィーンフィルのすばらしい響きを堪能できることでしょう。もちろん、フィガロを歌うシエピの歌声もとても魅力的です。そして、それらすべてを統率するクライバーのはずむような指揮ぶりも魅力的で、なるほどモーツァルトはこういう風に演奏してくれなくっちゃ!!と思ってしまいます。
にも関わらず、私はやはりベーム盤を愛します。
それは、私がこのオペラを聴く目的はただ一つ、伯爵が「許せ奥方よ(Contessa perdono)」と歌い出してから繰り広げられる和解と許しの音楽を聴くことだからです。「私は、いつも素直ですから」と応える伯爵夫人に続いてその場の人物全員で作り上げられていくハーモニーは、映画「アマデウス」でサリエリが「神がすべての人に許しを与えている」と感嘆した音楽です。
つまり、ここでは「奇跡」が起きなければならないのですが、残念ながらこのクライバー盤では、その部分はあまりにも素っ気なく駆け抜けていってしまうように思います。ただし、そのことはクライバーの責任ではなくて、ベーム以外の指揮ではいつもなにがしかの不満が残ってしまいますので、それだけ私とベーム盤との相性がいいと言うことなのでしょう。
もちろん、私のような聴き方は間違っているのでしょう。
このオペラには、この終幕の音楽以外にも魅力的なアリアが満載です。フィガロの「もう飛ぶまいぞ、この蝶々」、ケルビーノの「自分で自分が分からない」「恋とはどんなものかしら」、伯爵夫人のカバティーナや「甘さと喜びの美しいときは」など、いくらでも数え上げることができます。
さらには、モーツァルト自身が一番気に入っていたという「母を認めておくれ」の六重唱などのアンサンブルも見事なものです。エーリッヒの指揮ぶりが見事なのは、このようなアンサンブルもしっかりと統率していてこのオペラが平板なアリアの羅列になることをふせいでいることです。
確かに今となっては、いささか古いスタイルの演奏で違和感を感じる人もいるかもしれません。シエピのフィガロなんかもあまりにも立派すぎて、どちらが伯爵か分からないほどです。
それでも、この演奏は黄金の五〇年代という輝ける時代をパッケージした録音としてその存在価値を失うことはないでしょう。