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モーツァルト:交響曲第38番 ニ長調 「プラハ」 K.504
ベーム指揮 ベルリンフィル 1959年10月録音をダウンロード
複雑さの極みに成立している音楽
1783年にわずか4日で「リンツ・シンフォニー」を仕上げたモーツァルトはその後3年にもわたってこのジャンルに取り組むことはありませんでした。40年にも満たないモーツァルトの人生において3年というのは決して短い時間ではありません。その様な長いブランクの後に生み出されたのが38番のシンフォニーで、通称「プラハ」と呼ばれる作品です。
前作のリンツが単純さのなかの清明さが特徴だとすれば、このプラハはそれとは全く正反対の性格を持っています。
冒頭部分はともに長大な序奏ではじまるところは同じですが、こちらの序奏部はまるで「ドン・ジョバンニ」を連想させるような緊張感に満ちています。そして、その様な暗い緊張感を突き抜けてアレグロの主部がはじまる部分はリンツと相似形ですが、その対照はより見事であり次元の違いを感じさせます。そして、それに続くしなやかな歌に満ちたメロディが胸を打ち、それに続いていくつもの声部が複雑に絡み合いながら展開されていく様はジュピターのフィナーレを思わせるものがあります。
つまり、こちらは複雑さの極みに成り立っている作品でありながら、モーツァルトの天才がその様な複雑さを聞き手に全く感じさせないと言う希有の作品だと言うことです。
第2楽章の素晴らしい歌に満ちた音楽も、最終楽章の胸のすくような音楽も、じっくりと聴いてみると全てこの上もない複雑さの上に成り立っていながら、全くその様な複雑さを感じさせません。プラハでの初演で聴衆が熱狂的にこの作品を受け入れたというのは宜なるかなです。
伝えられた話では、熱狂的な拍手の中から「フィガロから何か一曲を!」の声が挙がったそうです。それにこたえてモーツァルトはピアノに向かい「もう飛ぶまいぞ、この蝶々」を即興で12の変奏曲に仕立てて見せたそうです。もちろん、音楽はその場限りのものとして消えてしまって楽譜は残っていません。チェリが聞けば泣いて喜びそうなエピソードです。
優美でロココなモーツァルト
優美でロココなモーツァルト像ベーム&ベルリンフィルによるモーツァルトの交響曲全集はラインスドルフによる全集に続いて2番目のものです。しかし、ラインスドルフの全集は全体として早めのテンポによるザッハリヒカイトな演奏であるのに対して、ベームによる全集は遅めのテンポによる荘重なスタイルで貫かれています。
時を接して完成されたこの二つの全集は、音楽の質においては全く様相を異にしているのです。そして、長くモーツァルト演奏のスタンダードとなったのはこのベームによる全集の方であり、その結果としてラインスドルフの全集は忘れ去られていきました。
しかし、70?80年代に始まったピリオド演奏の流れは、今度はこのベームの全集を過去のものとしてしまい、スタンダードの位置から引きずり下ろしてしまいました。
さらに悪いことに、ベームという人はその晩年において著しい衰えをみせたにもかかわらず、一線から退くことなく演奏と録音を続けました。そして、さらい罪深いことに、そのような悲惨としか言いようのない晩年の演奏や録音を評論家たちは「老巨匠による枯れた演奏」と言って天まで持ち上げました。
結果として、ベームの業績は晩年の悲惨な演奏や録音によって固定化されることになり、彼の死によってベームは生物学的に死んだだけでなく、人々の記憶からも急速に消え去っていくことになりました。
この悲しい現実を前にして、吉田秀和氏は「ベームは二度死んだ」とため息をつきました。
正直申し上げて、このベームによるモーツァルト演奏は今では「時代遅れの産物」というレッテルが貼られています。
そう言えば、今年は彼の没後30年になるのですが、レコード会社は何のアクションも起こしませんでした。おそらくは、そんな企画をしても「売れない」と判断したのでしょう。
ベームが存命中はオーストリアの総音楽監督(1964年)という名誉称号を与えられ、ウィーンフィルからも名誉指揮者(1967年)の称号を与えられていたことを思えば、信じがたいほどの凋落ぶりです。
しかし、70?80年代の晩年の録音ではなく、50?60年代の未だに活力にあふれた時代の録音を聞いてみると、それほどまでに無視されるのはいささか不当ではないかと思います。
その事は、1959年から1969年にかけて録音されたモーツァルトの交響曲全集においても言えます。
確かに、その演奏スタイルは昨今のピリオド演奏やそこから影響を受けたモダン楽器による演奏と比べると全く様相が異なります。しかし、スタイルが古いと言うだけで切って捨てるには惜しい魅力を持っていることも事実です。
そう言いながら、実際、私も彼のモーツァルト演奏を聴き直してみたのは「久しぶり」なのです。(^^;クレンペラーやワルターでモーツァルトの交響曲を聴くことはたまにはあったのですが、ベームの演奏は本当に久しぶりでした。結局は、私の中にあってもベームは死につつあったのかもしれません。
しかし、今回、本当に久しぶりに聴き直してみて、まずはそのオケの響きの透明性の高さに驚かされました。音楽の造形は基本的にがっちりとして荘重なたたずまいだったのは記憶の通りだったのですが、オケの響きは重くもなければ鈍くもないどころか、これほどまでにも透明感の高いものだったのかと驚かされました。
ベームが作り出すオケの響きはワルターのように低声部を強調することもなく、各声部の見通しが驚くほどよくて、当時としては「現代的で新しいスタイル」の演奏だったのだろうなと納得した次第です。
また、リズムの処理も晩年のベームとは別人かと思うほどにしなやかなで活力に満ちています。
結果として、その生き生きとした弾むようなモーツァルト像が、透明感のある見通しのよい響きと相まって、それはそれなりに魅力ある姿として立ち現れているように思いました。
その意味では、この演奏は60年代という時代における一つの頂点を示しているもので、それ故に長くスタンダードの位置にあったのも根拠のない話ではなかったのです。おそらく、こういうスタイルによるモーツァルトというのは、今後二度と聞くことができないでしょう。スウィトナーがこの世を去ってしまった今となっては、この事は確信を持って言い切れます。
ピリオド演奏の突風が一段落したと言っても、今後もまた新しい解釈による新しいモーツァルト像が提示されていくことが間違いありません。しかし、60年代という時代において示された、このように優美でロココなモーツァルト像が再現されることは二度とないでしょう。
今回アップした中では3曲の中では、例えば35番の「ハフナー」の第3楽章のメヌエットなどを聴くとちょっとごっついかな?と言う気がしたりもしますが、全体としてはこれほどしなやかで歌心に満ちた演奏はそうそうないだろうなと思ってしまいます。
その事を思えば、「時代遅れ」と言うレッテルだけを貼って忘れてしまうのには惜しい演奏だと思います。