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ベートーベン:交響曲第7番イ長調 作品92
クレンペラー指揮 フィルハーモニア管 1960年10月&11月録音をダウンロード
深くて、高い後期の世界への入り口
「不滅の恋人」は「アマデウス」と比べるとそれほど話題にもなりませんでしたし、映画の出来そのものもいささか落ちると言わなければなりません。しかし、いくつか印象的な場面もあります。(ユング君が特に気に入ったのは、クロイツェル・ソナタの効果的な使い方です。ユング君はこの曲が余りよく分からなかったのですが、この映画を見てすっかりお気に入りの曲になりました。これだけでも、映画を見た値打ちがあるというものです。)
それにしても、「アマデウス」でえがかれたモーツァルトもひどかったが、「不滅の恋人」でえがかれたベートーベンはそれに輪をかけたひどさでした。
第9で、「人類みな兄弟!!」と歌いあげた人間とは思えないほどに、「自分勝手」で「傲慢」、そしてどうしようもないほどの「エキセントリック」な人間としてえがかれていました。一部では、あまりにもひどすぎると言う声もあったようですが、ユング君は実像はもっとひどかったのではないかと思っています。
偉大な音楽家達というものは、その伝記を調べてみるとはっきり言って「人格破綻者」の集まりです。その人格破綻者の群の中でも、とびきりの破綻者がモーツァルトとベートーベンです。
最晩年のぼろ屑のような格好でお疾呼を垂れ流して地面にうずくまるベートーベンの姿は、そのような人格破綻者のなれの果てをえがいて見事なものでした。
不幸と幸せを足すとちょうど零になるのが人生だと言った人がいました。これを才能にあてはめると、何か偉大なものを生み出す人は、どこかで多くのものを犠牲にする必要があるのかもしれません。
この交響曲の第7番は、傑作の森と言われる実り豊かな中期の時期をくぐりぬけ、深刻なスランプに陥ったベートーベンが、その壁を突き破って、後期の重要な作品を生み出していく入り口にたたずむ作品です。
ここでは、単純きわまるリズム動機をもとに、かくも偉大なシンフォニーを構築するという離れ業を演じています。(この課題に対するもう一つの回答が第8交響曲です。)
特にこの第2楽章はその特徴のあるリズムの推進力によって、一つの楽章が生成発展してさまをまざまざと見せつけてくれます。
この楽章を「舞踏の祝祭」と呼んだのはワーグナーですが、やはり大したものです。
そしてベートーベンはこれ以後、凡人には伺うこともできないような「深くて」「高い」後期の世界へと分け入っていくことになります。
驀進する重戦車
私がクレンペラーという指揮者に目が向いたのはメンデルスゾーンの3番と、このベートーベンの7番がきっかけでした。何故に惹きつけられたのかというと、メンデルスゾーンに関して言えば「一番の聞き所は、言うまでもなく最後のコーダの部分です。誰が演奏しても、ここはテンポを上げたくなるところですが、クレンペラーは逆にぐっと腰を下ろして、逆にテンポを落としていきます。結果として、まさに空前絶後の巨大にして壮大なフィナーレが出現します。」と言うことにつきます。
つまりは、誰がやっても思わずテンポを上げたくなるところでぐっと腰を下ろすという音楽の作りに参ってしまったのです。
そして、その腰を落とすことによって生み出される途方もない迫力は、この男以外では聞くことのできないたぐいのモノだったからです。
このベートーベンの7番でも、最終楽章で長く持続的にクレッシェンドをしていく訳なのですが、そう言うときは誰が指揮しても普通は次第次第にテンポが上がっていくものです。
しかし、クレンペラーという男は頑としてテンポを変えません。
まさに「インテンポの鬼」です。
結果として、そのインテンポは重戦車が驀進して地上のあらゆるものを薙ぎ倒していくような迫力を生み出すわけです。
しかし、こういう音楽の作り方に違和感を覚える人もいるでしょう。
ワーグナーがこの作品のことを「舞踏の祝祭」と呼んだ事を思えば、もっと弾んで欲しいと思う人がいても当然です。それ故に、メンデルスゾーンの時のように、これもまた「20世紀の演奏史に燦然と輝く金字塔」とは言いません。
しかし、男クレンペラーの凄味を体験するには、絶好の録音であることは事実です。
今や、絶対に聞くことのできないベートーベン像です。異形として「敬して遠ざける」にはもったいなさ過ぎるでしょう。