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モーツァルト:交響曲第36番 ハ長調 「リンツ」 K386

ワルター指揮 コロンビア交響楽団 1960年2月28日&29日録音




わずか4日で仕上げたシンフォニ

1783年の夏にモーツァルトは久しぶりにザルツブルグに帰っています。その帰りにリンツに立ち寄った彼は3週間ほどトゥーン伯爵の邸宅に逗留することとなりました。
そして、到着してすぐに行われた演奏会では、ミヒャエル・ハイドンのシンフォニーに序奏を付け足した作品を演奏しました。実は、すぐに演奏できるような新作のシンフォニーを持っていなかったためにこのような非常手段をとったのですが、後年この作品をモーツァルトの作品と間違って37番という番号が割り振られることになってしまいました。もちろん、この幻の37番シンフォニーはミヒャエル・ハイドンの作品であることは明らかであり、モーツァルトが新しく付け加えた序奏部だけが現在の作品目録に掲載されています。

さて、大変な音楽愛好家であったトゥーン伯爵は、その様な非常手段では満足できなかったようで、次の演奏会のためにモーツァルト自身の新作シンフォニーを注文しました。この要望にこたえて作曲されたのが36番シンフォニーで、このような経緯から「リンツ」という名前を持つようになりました。

ただ、驚くべきは、残された資料などから判断すると、モーツァルトの後期を代表するこの堂々たるシンフォニーがわずか4日で書き上げられたらしいと言うことです。いかにモーツァルトが天才といえども、全く白紙の状態からわずか4日でこのような作品は仕上げられないでしょうから、おそらくは作品の構想はザルツブルグにおいてある程度仕上がっていたとは思われます。とは言え、これもまた天才モーツァルトを彩るには恰好のエピソードの一つといえます。

まず、アダージョの序奏ではじまった作品は、アレグロのこの上もなく明快で快活な第1主題に入ることで見事な効果を演出しています。最近、このような単純で明快、そして快活な姿の中にこそモーツァルトの本質があるのではないかと強く感じるようになってきています。第2楽章のアンダンテも微妙な陰影よりはある種の単純さに貫かれた清明さの方が前面にでています。そしてその様な傾向はメヌエットでも最後のプレスト楽章でも一貫しています。
おそらくは4日で仕上げる必要があったと言うことがその様な単純さをもたらしたのでしょう。しかし、その事が決してマイナスにならないところがモーツァルトの凄いところです。

ワルターの伝統的な美意識とオケの現在的な感覚との絶妙なる融合


この録音は長く棚にしまい込まれていて、パブリックドメインの仲間入りをしている事にも気づかずに放置されていました。こんな事になってしまった背景には、ワルターの真価は最晩年のコロンビア響との録音ではなくて、それ以前のモノラル時代やヨーロッパ時代の録音にこそあるのだという「思いこみ」があったからです。
しかし、今回、パブリックドメインとなったモーツァルトの録音を聴き直してみて、意外なまでの素晴らしさに「うーん」とうなってしまいました。そして、その「うなってしまった」背景には、私が毛嫌いしてきた「ピリオド演奏」の影響があることを否定できないことに気づかされて、いささか複雑な思いに駆られました。

よく知られていることですが、ワルターのために特別に編成されたコロンビア響は通常のオケと比べれば編成がやや小振りでした。そのために、マーラーなどの録音では響きが物足りなくなって、編集の過程でそれらしくなるように手を加えたりしたことが知られています。
しかし、その編成の小ささが、モーツァルトのシンフォニーでは決してマイナスになっていないどころか、「ピリオド演奏」の洗礼を受けた耳には好ましくさえ思えるようになっていることに気づかされたのです。

これは、同じような時期に録音されたクレンペラーの演奏と比べてみればその違いは歴然とします。おそらくは、ほぼ通常の編成で録音したであろうクレンペラーのモーツァルトは、今の耳からすればあまりにも「鈍重」に過ぎます。それは、何もクレンペラーだけでなくこの時代の巨匠たちの録音に共通するスタイルです。ベーム然り、ヨッフムもまた然り、です。
しかし、ワルター&コロンビア響のモーツァルト演奏は、それら同時代の巨匠たちの録音とは全く雰囲気が異なります。それは、この数年前にヨーロッパに里帰りをして、VPOとポルタメントをかけまくったト短調シンフォニーを演奏した人物と同一だとはとうてい信じがたいほどです。

確かに、小編成ではありながら、低声部をしっかりと響かせた音の作り方はワルター特有のものです。その点については、「ピリオド演奏」とは全く真逆の世界です。しかし、低声部が分厚いにもかかわらず響きの透明性が高く、音の立ち上がりがこの上もなくシャープなのです。
そして、おそらくは、後者の「特質」はワルターの指示と言うよりはオケの「特性」が前面に出た結果なのだと思います。
ワルターは声部のバランスとテンポ設定だけを指示しているだけで、細かいところはオケに任せているような雰囲気がします。その結果、オケの編成の小ささも相まって、ワルターが持っている伝統的な美意識とオケが持っている現代的でシャープな造形意識が絶妙に融合して、実に不思議な世界が出来上がることになったようです。

この録音には、この時代の巨匠たちに共通する巨大で重厚な造形はありませんし、後の時代を席巻するピリオド演奏ほどにはクリアでもなければシャープでもありません。世間では、こういう世界を「中途半端」と切って捨ててしまうのですが、しかし、実際に演奏を耳にすると得も言われぬ魅力があることは否定できないので困ってしまいます。
そこで、しばし沈思黙考して気づかされたのが、テンポ設定の妙です。
こんな言い方をすると実にいい加減なので気が引けるのですが、ワルターの手にかかると、すべの部分が「これ以外にはない」と思えるようなテンポで音楽が進められているように思えるのです。それは、メトロノーム記号でいくつというような単純なものではなく、すべてのフレーズがこのような語り口で話されるべきだと得心がいくようなテンポ設定なのです。そして、このような「芸」を身につけていたのは、モーツァルトに関してはワルター以外には存在しなかったことに気づかされるのです。
このテンポ設定があるが故に、この晩年のモーツァルト録音が「中途半端」なものではなく「希有」なものになり得ているのではないと思う次第です。
やはり、ワルターは長生きして幸せだったようです。