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モーツァルト:交響曲第38番 ニ長調 K.504 「プラハ」

ワルター指揮 コロンビア交響楽団 1959年12月2日録音


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複雑さの極みに成立している音楽

1783年にわずか4日で「リンツ・シンフォニー」を仕上げたモーツァルトはその後3年にもわたってこのジャンルに取り組むことはありませんでした。40年にも満たないモーツァルトの人生において3年というのは決して短い時間ではありません。その様な長いブランクの後に生み出されたのが38番のシンフォニーで、通称「プラハ」と呼ばれる作品です。

前作のリンツが単純さのなかの清明さが特徴だとすれば、このプラハはそれとは全く正反対の性格を持っています。
冒頭部分はともに長大な序奏ではじまるところは同じですが、こちらの序奏部はまるで「ドン・ジョバンニ」を連想させるような緊張感に満ちています。そして、その様な暗い緊張感を突き抜けてアレグロの主部がはじまる部分はリンツと相似形ですが、その対照はより見事であり次元の違いを感じさせます。そして、それに続くしなやかな歌に満ちたメロディが胸を打ち、それに続いていくつもの声部が複雑に絡み合いながら展開されていく様はジュピターのフィナーレを思わせるものがあります。
つまり、こちらは複雑さの極みに成り立っている作品でありながら、モーツァルトの天才がその様な複雑さを聞き手に全く感じさせないと言う希有の作品だと言うことです。

第2楽章の素晴らしい歌に満ちた音楽も、最終楽章の胸のすくような音楽も、じっくりと聴いてみると全てこの上もない複雑さの上に成り立っていながら、全くその様な複雑さを感じさせません。プラハでの初演で聴衆が熱狂的にこの作品を受け入れたというのは宜なるかなです。
伝えられた話では、熱狂的な拍手の中から「フィガロから何か一曲を!」の声が挙がったそうです。それにこたえてモーツァルトはピアノに向かい「もう飛ぶまいぞ、この蝶々」を即興で12の変奏曲に仕立てて見せたそうです。もちろん、音楽はその場限りのものとして消えてしまって楽譜は残っていません。チェリが聞けば泣いて喜びそうなエピソードです。

ワルターの伝統的な美意識とオケの現在的な感覚との絶妙なる融合


この録音は長く棚にしまい込まれていて、パブリックドメインの仲間入りをしている事にも気づかずに放置されていました。こんな事になってしまった背景には、ワルターの真価は最晩年のコロンビア響との録音ではなくて、それ以前のモノラル時代やヨーロッパ時代の録音にこそあるのだという「思いこみ」があったからです。
しかし、今回、パブリックドメインとなったモーツァルトの録音を聴き直してみて、意外なまでの素晴らしさに「うーん」とうなってしまいました。そして、その「うなってしまった」背景には、私が毛嫌いしてきた「ピリオド演奏」の影響があることを否定できないことに気づかされて、いささか複雑な思いに駆られました。

よく知られていることですが、ワルターのために特別に編成されたコロンビア響は通常のオケと比べれば編成がやや小振りでした。そのために、マーラーなどの録音では響きが物足りなくなって、編集の過程でそれらしくなるように手を加えたりしたことが知られています。
しかし、その編成の小ささが、モーツァルトのシンフォニーでは決してマイナスになっていないどころか、「ピリオド演奏」の洗礼を受けた耳には好ましくさえ思えるようになっていることに気づかされたのです。

これは、同じような時期に録音されたクレンペラーの演奏と比べてみればその違いは歴然とします。おそらくは、ほぼ通常の編成で録音したであろうクレンペラーのモーツァルトは、今の耳からすればあまりにも「鈍重」に過ぎます。それは、何もクレンペラーだけでなくこの時代の巨匠たちの録音に共通するスタイルです。ベーム然り、ヨッフムもまた然り、です。
しかし、ワルター&コロンビア響のモーツァルト演奏は、それら同時代の巨匠たちの録音とは全く雰囲気が異なります。それは、この数年前にヨーロッパに里帰りをして、VPOとポルタメントをかけまくったト短調シンフォニーを演奏した人物と同一だとはとうてい信じがたいほどです。

確かに、小編成ではありながら、低声部をしっかりと響かせた音の作り方はワルター特有のものです。その点については、「ピリオド演奏」とは全く真逆の世界です。しかし、低声部が分厚いにもかかわらず響きの透明性が高く、音の立ち上がりがこの上もなくシャープなのです。
そして、おそらくは、後者の「特質」はワルターの指示と言うよりはオケの「特性」が前面に出た結果なのだと思います。
ワルターは声部のバランスとテンポ設定だけを指示しているだけで、細かいところはオケに任せているような雰囲気がします。その結果、オケの編成の小ささも相まって、ワルターが持っている伝統的な美意識とオケが持っている現代的でシャープな造形意識が絶妙に融合して、実に不思議な世界が出来上がることになったようです。

この録音には、この時代の巨匠たちに共通する巨大で重厚な造形はありませんし、後の時代を席巻するピリオド演奏ほどにはクリアでもなければシャープでもありません。世間では、こういう世界を「中途半端」と切って捨ててしまうのですが、しかし、実際に演奏を耳にすると得も言われぬ魅力があることは否定できないので困ってしまいます。
そこで、しばし沈思黙考して気づかされたのが、テンポ設定の妙です。
こんな言い方をすると実にいい加減なので気が引けるのですが、ワルターの手にかかると、すべの部分が「これ以外にはない」と思えるようなテンポで音楽が進められているように思えるのです。それは、メトロノーム記号でいくつというような単純なものではなく、すべてのフレーズがこのような語り口で話されるべきだと得心がいくようなテンポ設定なのです。そして、このような「芸」を身につけていたのは、モーツァルトに関してはワルター以外には存在しなかったことに気づかされるのです。
このテンポ設定があるが故に、この晩年のモーツァルト録音が「中途半端」なものではなく「希有」なものになり得ているのではないと思う次第です。
やはり、ワルターは長生きして幸せだったようです。