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ベートーベン:ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調 Op.73 「皇帝」


(P)フライシャー セル指揮 クリーブランド管弦楽団 1961年3月3日録音をダウンロード


演奏者の即興によるカデンツァは不必要



ピアノ協奏曲というジャンルはベートーベンにとってあまりやる気の出る仕事ではなかったようです。ピアノソナタが彼の作曲家人生のすべての時期にわたって創作されているのに、協奏曲は初期から中期に至る時期に限られています。
第5番の、通称「皇帝」と呼ばれるこのピアノコンチェルトがこの分野における最後の仕事となっています。

それはコンチェルトという形式が持っている制約のためでしょうか。
これはあちこちで書いていますので、ここでもまた繰り返すのは気が引けるのですが、やはり書いておきます。(^^;

いつの時代にあっても、コンチェルトというのはソリストの名人芸披露のための道具であるという事実からは抜け出せません。つまり、ソリストがひきたつように書かれていることが大前提であり、何よりも外面的な効果が重視されます。
ベートーベンもピアニストでもあったわけですから、ウィーンで売り出していくためには自分のためにいくつかのコンチェルトを創作する必要がありました。

しかし、上で述べたような制約は、何よりも音楽の内面性を重視するベートーベンにとっては決して気の進む仕事でなかったことは容易に想像できます。
そのため、華麗な名人芸や華やかな雰囲気を保ちながらも、真面目に音楽を聴こうとする人の耳にも耐えられるような作品を書こうと試みました。(おそらく最も厳しい聞き手はベートーベン自身であったはずです。)
その意味では、晩年のモーツァルトが挑んだコンチェルトの世界を最も正当な形で継承した人物だといえます。
実際、モーツァルトからベートーベンへと引き継がれた仕事によって、協奏曲というジャンルはその夜限りのなぐさみものの音楽から、まじめに聞くに値する音楽形式へと引き上げられたのです。

ベートーベンのそうのような努力は、この第5番の協奏曲において「演奏者の即興によるカデンツァは不必要」という域にまで達します。

自分の意図した音楽の流れを演奏者の気まぐれで壊されたくないと言う思いから、第1番のコンチェルトからカデンツァはベートーベン自身の手で書かれていました。しかし、それを使うかどうかは演奏者にゆだねられていました。自らがカデンツァを書いて、それを使う、使わないは演奏者にゆだねると言っても、ほとんどはベートーベン自身が演奏するのですから問題はなかったのでしょう。
しかし、聴力の衰えから、第5番を創作したときは自らが公開の場で演奏することは不可能になっていました。
自らが演奏することが不可能となると、やはり演奏者の恣意的判断にゆだねることには躊躇があったのでしょう。

しかし、その様な決断は、コンチェルトが名人芸の披露の場であったことを考えると画期的な事だったといえます。

そして、これを最後にベートーベンは新しい協奏曲を完成させることはありませんでした。聴力が衰え、ピアニストとして活躍することが不可能となっていたベートーベンにとってこの分野の仕事は自分にとってはもはや必要のない仕事になったと言うことです。
そして、そうなるとこのジャンルは気の進む仕事ではなかったようで、その後も何人かのピアノストから依頼はあったようですが完成はさせていません。

ベートーベンにとってソナタこそがピアノに最も相応しい言葉だったようです 。

ピアノがオケのパートであるかのように響きの中に溶けこんでいます

ベートーベンの協奏曲は第4番だけが先に録音されていたので、それをアップしたときに次のように紹介していました。

「レオン・フライシャーと言えば、50年代の後半から60年代の初頭にかけてセル&クリーブランド管とのコンビでたくさんの録音を残したピアニストとして記憶に残っています。
ところが、その後突然に表舞台から姿を消してしまいます。
セルという人は自分自身が優れたピアニストであったために、競演するピアニストに対する選り好みは非常にシビアでした。人気だけが先行して実力の伴わないピアニストを受け入れるようなことは絶対にない人です。
ですから、クライバーンのように才能をすり減らされて使い捨てにされると言うことは考えにくいので、不思議だなと思っていました。

ところが、最近になって40年の闘病を経て復帰したというニュースに接して、遅まきながら事の真相が理解できました。おそらく、ピアノ業界では有名な話でほとんどの人が既知だったのでしょうが、私は不勉強のゆえに始めて知るところとなりました。

フライシャーをおそった病気は「フォーカル・ジストニア」で、ピアニストの命とも言うべき右手の2本の指が動かなくなったのです。
まさに、キャリアの絶頂で地獄のどん底に叩き落とされたようなもので、その絶望感はたとえきれないものだったようです。しかし、その後、後進の指導や指揮活動に活路を見いだし、さらには「左手のピアニスト」としても舞台に復帰したようです。
そして、ついに、新しい治療法と巡り会うことで右手の動きが回復し「両手のピアニスト」として舞台に復帰したというわけです。

「フォーカル・ジストニア」という病気はピアノ演奏にみられるような過剰な手指の巧緻動作が原因と考えられているようで、よほどの反復動作を行わない限り発生しないものだそうです。
しかし、彼がセル&クリーブランド管と録音した一連の演奏を聞いてみて、なるほどこれでは病気になったのも故なきことではないと思いました。こんな風に書くと、まるでセルがフライシャーをいじめ抜いたのが原因のように読めるのですが、決してそんなことを言っているのではありません。

フライシャーのピアノはどの録音を聞いても実にきまじめです。本当に一音一音手を抜くことなく、一切の曖昧さを排除してかっちりと弾ききっています。当時の写真を見てもまるで大学の教授のようで、その風貌からは酒と薔薇の日々しか想像できないようなホロヴィッツやルービンシュタインとは生まれた星が違うほどに対極にある存在です。
そして、その演奏を聴いて、なぜにセルが彼を重用したのかも簡単に納得がいきました。

フライシャーのピアノは驚くほどに自己主張が少ないのです。
ソリストというのは目立ってなんぼですから、ホロヴィッツみたいにオケがついてこれなくても己のテクニックを誇示するために超絶的なスピードで弾ききって涼しい顔をしているのが普通です。
しかし、フライシャーのピアノからはその様な「山っ気」は微塵も感じられません。本当に、まじめに作曲家に仕えるという姿勢がにじみ出ています。
ですから、協奏曲と言ってもオケと張り合うのではなく、まさにオケの一つのパートであるかのようにピアノが全体の響きに溶けこんでいます。
これで、セルが喜ばないはずがありません。

彼は作曲家に仕え、そしておそらくはセルにも仕えて、おそらくはセルが理想としたであろう音楽を作り出すために献身しています。」

大筋は今も変更するところはないのですが、「セルの理想のために献身した」という部分に関しては変更した方がいいかなと思うようになりました。
それは、セルとフライシャーのベクトルが驚くほどに通っていたために、パッと聞いただけでは「献身」なんて思ってしまったんですね。しかし、同じように「完璧差への追求」といっても、前で指揮棒振っているだけの指揮者と、自分の指を動かして具体的に音を出さなければいけないピアニストとでは負担が違ったということでしょう。
そう言えば、ウィーンフィル史上最高のコンマス(異論はあるかもしれrませんが^^;)と言われたワルター・ウェラーが指揮者に転向したときに、「あいつはさらうのが嫌になったんだろう」などと陰口をたたかれたモノです。

それから、もう一つ付けくわえておけば、あまり細かいことにこだわらない大らかさを持った人でもあったようで、その事もセルにとっては付き合いやすいピアニストだったようです。
確かに、セルはピアニストに対しては注文の多い人でした。
ですから、たいていの場合はお互いに「緊張感」を強いられて気疲れのする仕事になることが多かったようです。そんな中で、カサドシュやフライシャーは、セルにとっては楽しく演奏ができる数少ないピアニストだったのでしょう。
そして、そのような度量の大きさが、突然の病による引退という地獄を乗り越える原動力ともなったのでしょう。
絶頂期にあったセル&クリーブランドという最高のバックアップを得て、このような素晴らしい録音が残ったことを感謝しましょう。