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シベリウス:ヴァイオリン協奏曲 ニ短調 作品47


Vn.リッチ フィエルスタート指揮 ロンドン交響楽団 1958年2月録音をダウンロード


シベリウス唯一のコンチェルト



 シベリウスはもとはヴァイオリニスト志望でした。しかし、人前に出ると極度に緊張するという演奏家としては致命的な「欠点」を自覚して、作曲家に転向しました。これは、後世の人々にとっては有り難いことでした。ヴァイオリニストとしてのシベリウスならば代替品はいくらでもいますが、作曲家シベリスの代わりはどこにもいませんからね。
 そんなわけで、シベリウスにとってヴァイオリン協奏曲というのは「特別な思い入れ」があったようです。
 作曲されたのは2番の交響曲を完成させて、作曲家としての評価を確固たるものとした時期でした。1903年に彼はこの作品に取り組みはじめ、そして年内に一応の完成をみます。その翌年には初演も行われたのですが、評価はあまり芳しいものではなかったようです。
 そして、その翌年の05年に彼はベルリンでブラームスのヴァイオリン協奏曲を「聞いてしまいます。」

 シベリウスの基本は交響曲であり、民族的な素材に基づいた交響詩です。ですから、彼はこのコンチェルトを書くときも、独奏楽器の名人芸をひけらかすだけのショーピースとしてではなく、交響的な響きをともなった構成のガッチリとした作品を書いたつもりでした。ところが、ベルリンで初めて聞いたブラームスのコンチェルトは、そう言う彼の思いをはるかに超えた、まさに驚くほどに交響的的なコンチェルトだったが故に、彼に大きな衝撃を与えました。
 ヘルシンキに舞い戻ったシベリウスは猛然と改訂作業に取りかかり、1903年に完成させた初稿版は封印してしまいます。
 とにかく、彼にとって冗長と思える部分はバッサリとカットされます。オーケストレーションもより分厚い響きが出るようにかなりの部分は変更されたようです。結果として、できあがった改訂版の方は初稿と比べるとかなり短く凝縮されたものに変身しましたが、反面、初稿には感じられた素朴な暖かみや自由なイメージの飛翔という部分は後退しました。
 ただし、作曲家本人が全力を挙げて改訂作業に取り組み、さらに初稿の方を封印したのですから、我々ごときが「どちらの方がいい?」などという気楽なことは問うべきでないことは明らかでしょう。世界中から第8交響曲を期待され、そして、何度かそれらは「完成」しながらも、満足できないが故に結局は全て焼却してしまった男です。
 現在は「遺族の了承」という大義名分のもとに初稿版を聴くことができるのですが、やはり、シベリウスのヴァイオリンコンチェルトは1905年の改訂版で聴くのが筋というものなのでしょう。

リッチの不幸

ルジョーロ・リッチのステレオ録音初期の演奏をいくつかまとめて聴いてみました。その頃のリッチの録音に関してはサラサーテとかサン=サーンスの小品はアップしてあるので、今回はコンチェルトの大物をまとめて聴いてみた次第です。



リッチと言えば神童としてもてはやされ(1928年にわずか10歳でデビュー)、その後は難曲として有名なパガニーニの「24のカプリース(奇想曲)」を初録音して、パガニーニのスペシャリストとして名を馳せました。そして、驚くべき事に今も存命中と言うことなのですから、まさに生ける「音楽史」とも言うべき存在です。
何しろ、世界大恐慌の前年に演奏家としてのデビューを果たし、その後世界大戦と朝鮮・ベトナムの両戦争のみならず、湾岸戦争からリーマン・ショックまで経験をしたというのですから、凄いものです。ウィキペディアによると、その間に「65カ国において6000回以上の演奏会と、さまざまなレーベルから500点以上の録音を制作してきた」らしいです。

しかし、リッチの不幸は、そんな彼の少し前をハイフェッツという巨人が歩いていたことでしょう。
ハイフェッツは「7歳でメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲を演奏し、デビューを果たした」というリッチ以上に早熟の天才であり、わずか16歳の年(1917年)にアメリカデビューを果たし、さらにはロシア革命に伴って1925年にはアメリカの市民権を得て活動の本拠地とします。
リッチは、まさにそんなハイフェッツの背中を見ながら音楽活動を展開しなければならなかったのです。

確かにリッチは、パガニーニのスペシャリストとして評価されました。
しかし、例えば、同時代に録音されたブルッフの第1番の協奏曲などを聞き比べてみれば、残念ながらリッチにはハイフェッツの凄味はありません。リッチが得意としたサラサーテやサン=サーンスの小品でも、その他大勢のヴァイオリニストと比べれば素晴らしい技巧の冴えを感じさせてくれますが、悲しいことに、その土俵こそはハイフェッツの独擅場でした。

そこで、おそらく、この頃からリッチは己の方向性を変え始めたのではないかと思います。
ハイフェッツのような技巧の冴えを前面に押し出し、強い緊張感をもって作品を構築していくのではなくて、独特の歌い回しで深い情感を描き出していく方向への転換です。そして、その事は成功していると思います。
ハイフェッツのヴァイオリンでこういう協奏曲の大曲を聴くと、立派ではあるけれども、そしてその作品構築の見事さにも驚かされるのですが、どこか心の一番深いところにまで届いてこないもどかしさみたいなものを感じてしまいます。ですから、そんなハイフェッツの録音を聞いた後にリッチのヴァイオリンで聴き直すと、そう言う人肌に触れる情感が非常に好ましく心に届いてきます。

しかしながら、この時から50年が経過してみると、リッチは多くの人の記憶から消え去っていき、ハイフェッツは未だに巨人としての姿を誇示しています。
何故か?
それは、今回まとめて聴いてみて、はっきりと分かりました。

確かにリッチの演奏は好ましく思えます。確かなテクニックに裏打ちされた上で深くて豊かな情感にあふれたヴァイオリンの響きは非常に魅力的です。しかし、私たちは、その後の50年において、これに変わる多くのヴァイオリニストと出会うことができました。
しかし、ハイフェッツは未だに孤高の存在です。
音楽教育が高度に発展し、幼少期からのエリート教育が充実して演奏家のテクニックは飛躍的に向上しました、しかし、それでもなお、ハイフェッツは特別な存在です。月並みな言葉ですが、ハイフェッツの前にハイフェッツ無く、ハイフェッツの後にもハイフェッツは無いのです。
それ故に、パールマンが語ったように、この時代のヴァイオリニストはハイフェッツ病に罹ったのです。

ですから、ここで聴くことのできるリッチの録音は、そう言うハイフェッツの重圧を克服していったもう一人の不幸な天才の苦闘が垣間見られるような気がするのです。そして、この時代に、彼なりのやり方でハイフェッツをやり過ごしたことで、「生ける音楽史」と言えるほどの長い活動ができたのではないかと思います。
そう言う意味では、いろいろと興味深い演奏であり、録音です。