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フォーレ:レクイエム


アンセルメ指揮 スイス・ロマンド管弦楽団 トゥール・ド・ペイルス合唱団 ジェラール・スゼー(Br)  シュザンヌ・ダンコ(S) 1955年1月録音をダウンロード


フォーレその人の心の奥からわき上がった信仰告白



 クラシック音楽ファンを対象に「自分が死んだときに流してほしい音楽」をアンケートすれば1位か2位に入ることは間違いありません。(対抗できるのはエロイカの第2楽章くらいか!!)
 とにかく美しい音楽です。
 弦とハープの分散和音にのって歌い出される第3曲、サンクトゥスの美しさは言うまでもなく、第4曲、ピエ・イェズの心に染みいるようなソプラノ独唱の素晴らしさは一度聞けば絶対に忘れることの出来ない魅力に溢れています。そして、こんなにも天国的に美しい音楽を作曲した作曲家は教会のオルガニストもしていたと聞けば、信心深い敬虔なクリスチャンだったと誰しもが思うでしょう。
 ところが、現実は大違いで、若い頃のフォーレは夜遊び大好き、お酒、たばこも大好き、さらには女性も大好きというとても現世的な人だったらしいのです。件のオルガニストのお仕事も夜遊びがすぎて朝のお勤めに着替えが間に合わず、エナメルの靴と白いネクタイのままでオルガンを演奏してクビになったというエピソードも残っています。また、女性遍歴も片手では足りないほどで、どうしてかくも現世的な人間の手からかくも天国的な音楽が生み出されたのかと楽しくなってしまいます。
 しかし、この作品よく聞くと、音楽の雰囲気はとても天国的なのに、そのスタイルはカソリックのお約束からはかなり逸脱していることに気づきます。まず、誰でも分かるのは、レクイエムの核とも言うべき「怒りの日」が含まれていないことです。さらに、これに続いて最後の審判が描かれ、涙の日へとなだれ込んで行く部分もフォーレのレクイエムではバッサリとカットされています。

怒りの日 (Dies ira)

怒りの日、その日は
ダビデとシビラの預言のとおり
世界が灰燼に帰す日です。
審判者があらわれて
すべてが厳しく裁かれるとき
その恐ろしさはどれほどでしょうか。

 古今東西、坊主の仕事は地獄の恐ろしさを説き、その恐怖から救ってくれる神や仏の有り難さを売り込むことでビジネスとして成り立っていたのですから、こんなレクイエムでは困ってしまうのです。その辺のことは当事者の方が敏感ですから、マドレーヌ寺院での初演ではこのままでは演奏できないと言われたりしたそうですし、その後も「死の恐怖が描かれていない」「異教徒のレクイエム」等々、様々な批判にさらされました。

 信仰というのは基本的に心の問題です。これは恋愛と同じで、心の中の有り様というのは形として表出しないと相手に伝わりません。ですから多くの男どもはせっせと意中の女性にプレゼントを贈ったり食事に誘ったりします。信仰もまたそれを形として表出しないと人間社会では「信心深い」かどうかが判定しづらいので、「あるべき信仰の姿」というのが、教会によって定められます。
 しかし、恋愛ならば対象は人間ですが、信仰の対象は神です。人ならば、愛の深さをその人の外観からしか判断出来なかったとしても、神ならばその人の心の有り様そのものから信仰の深さを判断できるはずです。神の代理人たる聖職者が、その人のスタイルを根拠に不信心ものと決めつけたとしても、それでも私は深く神を信じていると反駁できる「個の強さ」がもてる時代になれば、そう言う思いはいっそう強くなるでしょう。
 そう言う意味で言えば、このフォーレのレクイエムは大きな時代の分岐点にたっている作品だと言えます。信仰がスタイルではなくて心そのものによって担保される時代のレクイエムです。
 ですから、この作品の天国的な雰囲気から敬虔なカソリック教徒による有り難いレクイエムと受け取るのはあまりにも脳天気ですが、同じくそのスタイルの「異形」を理由に、この作品から宗教的側面を捨象するような受け取り方も一面的にすぎるように思います。
 この作品は疑いもなく、フォーレその人の心の奥からわき上がった信仰告白です。その事は、フォーレの次の言葉にはっきりと刻印されています。
「私が宗教的幻想として抱いたものは、すべてレクイエムの中に込めました。それに、このレクイエムですら、徹頭徹尾、人間的な感情によって支配されているのです。つまり、それは永遠的安らぎに対する信頼感です。」

 教会がこの作品を「異教徒のレクイエム」と批判しても、おそらく神はこの音楽を嘉し給うでしょう。

ヘタウマの感動?

さて、この録音をアップしようかどうかかなり迷ったのですが、結論としては、バリトンのジェラール・スゼーがあまりにも素晴らしいのアップすることにしました。
肩の力の抜けたふんわりとした歌い回しが実に素晴らしいのです。ネット上で調べてみると、こういう声質のことを「バリトン・マルタン」と言うらしくて、フランスの声楽曲はこういう声質を想定して書かれているものが多いらしいのです。
確かに、実際に聴いてみると、なるほどフォーレのレクイエムというのはこういう風に歌ってほしいものだと思いこませる魅力を持っています。これと比べると、ソプラノのシュザンヌ・ダンコの声はいささか硬さを感じてしまいます。
そう言う意味で、こういう声質のバリトンを聴くと言うだけでも、充分にアップする価値はあると判断したわけです。

ただし、御大であるアンセルメの指揮は実に淡泊で、さらに言えばオケの響きも薄くていささか物足りなさを感じてしまいます。おそらく、オケの編成をかなり小さめにしているのではないかと思われます。

さて、それ以上に問題なのは、この作品の主役とも言うべき合唱です。
これはもう、ネット上の評判を探ってみると、ぼろくそです。

もちろん、そんな評判を探らなくても、冒頭の30秒ほどを聴くだけで「へたやなぁ?(^^;」と思ってしまいます。ただし、人間というのは不思議なもので、聞き進んでいくうちに、そう言う下手さ加減というのは次第に気にならなくなってきます。そして、これまた不思議なことに、心を込めて一生懸命歌っているので、次第次第にその熱気に聞き手の方が引きずり込まれていくという怖さを持っています。
例えば、「Dies illa, Dies irae,」と怒りの日が仄めかされた後に「Libera me, Domine, de morte aeterna.」と歌い出される部分などは、この上もなく感動的です。そして、不思議なことなのですが、最近の馬鹿ウマ合唱団(例えばアクサンチェス合唱団)などで聴くと、うまいなぁ?(^^vと感心はしても、この手の感動は与えてくれないのです。
日々研鑽に努めている多くの演奏家の方々にとっては、実にけしからん言い分だと思われるでしょうが、しかし、私の正直な心はそう申しております。
これを「ヘタウマ」などと分かったつもりにはなりたくないのですが、今のところ、それに変わる言葉を見いだせずにおります。