クラシック音楽へのおさそい~Blue Sky Label~


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ラヴェル:道化師の朝の歌(管弦楽版)

ストコフスキー指揮 フランス国立放送管弦楽団 1958年5月録音




どうして印象派なんだろう・・・?

ラヴェルとドビュッシーは「印象派」という言葉でひとくくりにされるのですが、これがどうも私の中ではしっくりときませんでした。なぜなら、ドビュッシーを特徴づけるのが茫洋とした輪郭線がぼかされたような響きであるのに対して、ラヴェルの方はそれとは対照的とも思える華やかな響きが特徴だと思ったからです。
特に、これがピアノ作品となると、その違いはよりクリアになるように思います。ドビュッシーに関してはかつて「ドビュッシーのピアノ音楽に対する最大の貢献は新しい響きを発見したことであり、その最大の価値は音色とリズムにこそあります。」と書いたことがあります。とりとめのない茫洋とした響きはピアノ音楽ではより明確になりますし、まさにその事がどうしてもドビュッシーが好きになれない最大の理由でした。
しかし、ラヴェルのピアノ作品はそう言うドビュッシーのものとは全く違うように聞こえます。
彼のピアノ作品は、極限まで発達したコンサートグランドの性能を使い切っているところにその特質があり、最も魅力的なのは爆発的とも言えるほどの響きの華麗さです。現在のピアニストにとって己のテクニックを誇示し聴衆を熱狂させるのにこれほど適したピースは存在しないでしょう。
確かに、ラヴェル作品の中にもドビュッシーを思わせるような繊細さやたゆたうような響きも存在しますが、それをもって「印象派」という言葉でひとくくりにするのはあまりにも乱暴にすぎると思うのですが、いかがなものでしょうか。そして、どうも世間では印象派の1番はドビュッシーでラヴェルは2番という位置づけが暗黙の了解のようですから、きっと「おれはもう一流のラヴェルなんだから二流の印象派作曲家なるつもりはない」と怒るんじゃないでしょうか。
さて、本題はピアノの小品集「鏡」です。
彼のピアノ作品を概観してみると、どうも華麗な響きを主体としたラヴェル作品の特質がはっきりと姿を表したのがこのピアノの小品集「鏡」あたりからのように思えます。彼自身も「私の和声的進展の中でもかなり大きな変化を示し」た述べているように、今までの作品とは一線を画すほどの華やかさにあふれています。その分、演奏する側にとってはかなりの困難を強いられる作品であることも事実です。
なお、この小品集の標題である「鏡」に関しては、何故にこのような標題となったのかはラヴェル自身が何も語っていません。ラヴェルがのぞき込んだ鏡に映っていた風景という解釈もあるようですが、それにしては意味不明なタイトルがついている作品もあります。
ちなみに、5つの小品には以下のようなタイトルが付けられています。

第1曲 蛾(Noctuelles)
第2曲 悲しげな鳥たち(Oiseaux tristes)
第3曲 海原の小舟(Une barque sur l'océan)
第4曲 道化師の朝の歌(Alborada del gracioso)
第5曲 鐘の谷(La vallée des cloches)

小品集ですから、基本的にはこの5つをまとめて演奏する必要はないようで、コンサートでもこれらの作品が単独で演奏される機会の方が多いようです。特に第4曲「道化師の朝の歌」は有名で、オーケストラ編曲もされて多くの人に親しまれています。

ストコフスキーの実験精神があふれた録音


ストコフスキーはステレオの離陸期(1956年?1958年)にキャピトル・レーベルに集中的に録音をしています。
これを聞いてみると、実に奇妙な感覚におそわれます。

まず、その最大の特徴は、選曲が極めてマイナーだと言うことです。お得意のバッハ編曲は脇に置いておけば、それ以外にはドイツ・オーストリアのクラシック正統派の王道とも言うべき作品は一つも取り上げていません。
ざっと見渡してみれば、ラヴェルにドビュッシーのフランス印象派、バルトーク、シェーンベルグ、ショスタコーヴィチなどの20世紀の音楽、そして、ホルストやレスピーギみたいな派手派手音楽などです。

二つめに不思議なのは、録音のクオリティです。
ネット上を見てみると、「冴えない録音」と言う声もあれば「ステレオ初期とは思えないほどの超優秀録音」という絶賛もあるという具合です。全く同じ録音を取り上げてそのような両極端な評価が同時に存在するのですから、本当に不思議と言わざるを得ません。
となれば、それは自分の耳で確かめるしかないと言うことで、これまた最近お得意の「集中試聴」をしてみました。
その結論はと言えば、やはり実にもって不思議な感覚におそわれたと言わざるを得ませんでした。
しかし、いつまでも不思議だ不思議だとばかりは言っていられませんので、じっくりと考えてみて、ふと一つのことに思い至りました。
それは、ひと言で言えば「実験」と言うことです。

これら一連の録音を聞いてみて、まず最初に気づかされるのは、個々の楽器の分離の良さです。
例えば、シェーンベルグの「浄められた夜」なんかでは、いささか厚めの弦楽合奏をバックにヴァイオリンの独奏ソロが鮮やかに浮かび上がってきたりします。その鮮やかさは実演では絶対に聞こえてこないような類のものです。
それ以外にも、これはと思えるような旋律があると、それが笑ってしまうほどに鮮やかに浮かび上がってきます。
そして、そんな録音を次々に聞いているうちに、これは「ステレオ録音」と言う新しい技術を使う事で、エンターテイメントとしてどれくらい魅力的なパフォーマンスを披露できるのかと、芸人ストコフスキーが嬉々として実験しているんではないだろうかと思うようになってきたのです。

ところが、これもまた聞いてみればすぐに分かるのですが、そう言う極めて分離のよい高解像度な録音でとらえられた肝心の演奏の方が、極めて「緩いアンサンブル」なのです。ですから、独奏楽器の響きは極めてクリアにとらえられているのに、そのバックのオケの響きが何となく混濁して聞こえるのです。また、響き自体もどこか軟体動物のようで、背中に一本筋が通った「しゃきっとした風情」が希薄なのも不満が残るところです。
結果として、何とも言えず不思議なテイストの録音に仕上がっているというわけです。

ですから、個々のクリアな独奏楽器の響きに耳がいけば「超優秀録音」のような気もするし、音楽全体を概観する人は「冴えない録音」だと辛口になると言うことなのでしょう。
しかし、それもまた彼の実験精神のなせる技なのでしょう。
「ステレオ効果」がもたらす新しい響きに夢中になって、そう言う煩わしいこと(アンサンブルを整える・・・など)には無頓着になってしまったのでしょう。

そして、そう思えば、これら一連の録音で取り上げた作品の「偏り」にも納得がいきます。
つまりは、彼はそう言う「実験」に相応しい作品を選んだのだと思えば、ベートーベンやブラームス、モーツァルトにハイドンなどを取り上げなかったのは全く持って当然のことだったわけです。

やはり、ストコフスキーに求めるのは、芸人の「芸」なのでしょう。
そう思って聞けば、これら一連の録音は素晴らしいまでのエンターテイメントに仕上がっています。時にはこういう「お楽しみ」もあってもいいのではないでしょうか。