クラシック音楽へのおさそい~Blue Sky Label~



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レスピーギ:ローマの松


ストコフスキー指揮 シンフォニー・オブ・ジ・エアー 1958年12月録音をダウンロード


オーケストレーションの達人



レスピーギという人、オーケストレーションの達人であることは間違いはありません。
 聞こえるか、聞こえないかの微妙で繊細な響きから、おそらくは管弦楽曲史上最大の「ぶっちゃきサウンド」までを含んでいます。言ってみれば、マーラーの凶暴さとドビュッシーの繊細さが一つにまとまって、そして妙に高度なレベルで完成されています。

 しかし、この作品、創作された年代を眺めてみると、色々な思いがわき上がってきます。
 最初に作られたのが、「ローマの噴水」で1916年、次が「ローマの松」で1924年、そして「ローマの祭り」が1928年となっています。
 要は後になるほど、「ぶっちゃき度」がアップしていき、最後の「ローマの祭り」の「主顕祭」ではピークに達します。そこには、最初に作られた「ローマの噴水」の繊細さはどこにもありません。
 そのあまりの下品さに、これだけは録音しなかったカラヤンですが、分かるような気がします。
 
 そう言えば、どこかの外来オケの指揮者がこんな事を言っていましたね。
「どんなにチンタラした演奏でも、最後にドカーンとぶっ放せば、日本の聴衆はそれだけでブラボーと叫んでくれる」
 しかし、これは日本だけの現象ではないようです。
 どうも最後がピアニッシモで終わる曲はプログラムにはかかりにくいようです。(例えば、ブラームスの3番。3楽章はあんなに有名なのに、他の3曲と比べると取り上げられる機会が大変少ないです。これは明らかに終楽章に責任があります)

 この3部作の並びを見ていると、受けるためにはこうするしかないのよ!と言いたげなレスピーギの姿が想像されてしまいます。

 それから、最後に余談ですが、レスピーギはローマ帝国の熱烈な賛美者だったそうです。この作品の変な魅力は、そういう超アナクロの時代劇が、最新のSFXを駆使して繰り広げられるような不思議なギャップにあることも事実です。
 ちなみに彼は自分の作品にこんな解説をつけています。

 第1楽章
ボルゲーゼ荘の松の木の下で子供たちが遊んでいる。子供たちは輪になって踊り、兵隊の真似をし、行進したり、戦争ごっこをする。子供たちは、自分たちの叫び声に酔い、大空の下で駆け回り、夕暮れに帰る燕のように群をなして退散して行く。情景が突然変わる。
 第2楽章
カタコンバに入る道の両側に立ち並ぶ松の木かげ。墓地の奥底から悲しげな声が上って来て、荘重な聖歌のように拡がり、やがて神秘的に消えて行く。』
 第3楽章
大気(風)がゆらいで走る。ジャニコロの丘の松が、清らかな月光に浮かび上がる。ナイチンゲールが鳴く。
 第4楽章:
霧に包まれたアッピア街道の朝明け。高い松並木の陰に、静かな平原の景色が見える。突如として、多数の兵士の足音の響きが、絶え間無いリズムをとって聞えて来る。古代の栄光が詩人の幻想に蘇える。
  ラッパの音がとどろき、太陽の光が射すとともに、執政官の軍隊が現われ、聖なる街道を行進して、首都へ凱旋していく。

ストコフスキーの実験精神があふれた録音

ストコフスキーはステレオの離陸期(1956年?1958年)にキャピトル・レーベルに集中的に録音をしています。
これを聞いてみると、実に奇妙な感覚におそわれます。

まず、その最大の特徴は、選曲が極めてマイナーだと言うことです。お得意のバッハ編曲は脇に置いておけば、それ以外にはドイツ・オーストリアのクラシック正統派の王道とも言うべき作品は一つも取り上げていません。
ざっと見渡してみれば、ラヴェルにドビュッシーのフランス印象派、バルトーク、シェーンベルグ、ショスタコーヴィチなどの20世紀の音楽、そして、ホルストやレスピーギみたいな派手派手音楽などです。

二つめに不思議なのは、録音のクオリティです。
ネット上を見てみると、「冴えない録音」と言う声もあれば「ステレオ初期とは思えないほどの超優秀録音」という絶賛もあるという具合です。全く同じ録音を取り上げてそのような両極端な評価が同時に存在するのですから、本当に不思議と言わざるを得ません。
となれば、それは自分の耳で確かめるしかないと言うことで、これまた最近お得意の「集中試聴」をしてみました。
その結論はと言えば、やはり実にもって不思議な感覚におそわれたと言わざるを得ませんでした。
しかし、いつまでも不思議だ不思議だとばかりは言っていられませんので、じっくりと考えてみて、ふと一つのことに思い至りました。
それは、ひと言で言えば「実験」と言うことです。

これら一連の録音を聞いてみて、まず最初に気づかされるのは、個々の楽器の分離の良さです。
例えば、シェーンベルグの「浄められた夜」なんかでは、いささか厚めの弦楽合奏をバックにヴァイオリンの独奏ソロが鮮やかに浮かび上がってきたりします。その鮮やかさは実演では絶対に聞こえてこないような類のものです。
それ以外にも、これはと思えるような旋律があると、それが笑ってしまうほどに鮮やかに浮かび上がってきます。
そして、そんな録音を次々に聞いているうちに、これは「ステレオ録音」と言う新しい技術を使う事で、エンターテイメントとしてどれくらい魅力的なパフォーマンスを披露できるのかと、芸人ストコフスキーが嬉々として実験しているんではないだろうかと思うようになってきたのです。

ところが、これもまた聞いてみればすぐに分かるのですが、そう言う極めて分離のよい高解像度な録音でとらえられた肝心の演奏の方が、極めて「緩いアンサンブル」なのです。ですから、独奏楽器の響きは極めてクリアにとらえられているのに、そのバックのオケの響きが何となく混濁して聞こえるのです。また、響き自体もどこか軟体動物のようで、背中に一本筋が通った「しゃきっとした風情」が希薄なのも不満が残るところです。
結果として、何とも言えず不思議なテイストの録音に仕上がっているというわけです。

ですから、個々のクリアな独奏楽器の響きに耳がいけば「超優秀録音」のような気もするし、音楽全体を概観する人は「冴えない録音」だと辛口になると言うことなのでしょう。
しかし、それもまた彼の実験精神のなせる技なのでしょう。
「ステレオ効果」がもたらす新しい響きに夢中になって、そう言う煩わしいこと(アンサンブルを整える・・・など)には無頓着になってしまったのでしょう。

そして、そう思えば、これら一連の録音で取り上げた作品の「偏り」にも納得がいきます。
つまりは、彼はそう言う「実験」に相応しい作品を選んだのだと思えば、ベートーベンやブラームス、モーツァルトにハイドンなどを取り上げなかったのは全く持って当然のことだったわけです。

やはり、ストコフスキーに求めるのは、芸人の「芸」なのでしょう。
そう思って聞けば、これら一連の録音は素晴らしいまでのエンターテイメントに仕上がっています。時にはこういう「お楽しみ」もあってもいいのではないでしょうか。


<追記>
この録音のオーケストラは「シンフォニー・オブ・ジ・エアー」ですね。トスカニーニが引退をして、スポンサーであるNBCから契約を解除されたNBC交響楽団が自主運営で活動を継続したオーケストラです。
そのオープニングのコンサートでは指揮者なしで素晴らしい演奏を行ったという伝説のオケですが、57年にトスカニーニが亡くなると一気に求心力を失って多くの有力メンバーがオケを去ってしまいます。
そして、この録音は、そのようなオケの「衰退」を残酷なまでにあからさまにしてくれます。ですから、ストコフスキーは、かつてこのオケが「NBC交響楽団」と名乗っていた時代にトスカニーニとのコンビでなしたような「ローマの松」とは全く方向性の違う音楽に仕上げています。そして、それはそれで「面白い」事は事実なのですが、何となくその「面白さ」にはある種の残酷さがつきまとっていることは否定できません。