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チャイコフスキー:交響曲第6番 ロ短調 作品74「悲愴」

クレンペラー指揮 フィルハーモニア管弦楽団 1961年10月録音



私は旅行中に頭の中でこれを作曲しながら幾度となく泣いた。

 チャイコフスキーの後期の交響曲は全て「標題音楽」であって「絶対音楽」ではないとよく言われます。それは、根底に何らかの文学的なプログラムがあって、それに従って作曲されたというわけです。
 もちろん、このプログラムに関してはチャイコフスキー自身もいろいろなところでふれていますし、4番のようにパトロンであるメック夫人に対して懇切丁寧にそれを解説しているものもあります。
 しかし6番に関しては「プログラムはあることはあるが、公表することは希望しない」と語っています。弟のモデストも、この6番のプログラムに関する問い合わせに「彼はその秘密を墓場に持っていってしまった。」と語っていますから、あれこれの詮索は無意味なように思うのですが、いろんな人が想像をたくましくしてあれこれと語っています。

 ただ、いつも思うのですが、何のプログラムも存在しない、純粋な音響の運動体でしかないような音楽などと言うのは存在するのでしょうか。いわゆる「前衛」という愚かな試みの中には存在するのでしょうが、私はああいう存在は「音楽」の名に値しないものだと信じています。人の心の琴線にふれてくるような、音楽としての最低限の資質を維持しているもののなかで、何のプログラムも存在しないと言うような作品は存在するのでしょうか。
 例えば、ブラームスの交響曲をとりあげて、あれを「標題音楽」だと言う人はいないでしょう。では、あの作品は何のプログラムも存在しない純粋で絶対的な音響の運動体なのでしょうか?私は音楽を聞くことによって何らかのイメージや感情が呼び覚まされるのは、それらの作品の根底に潜むプログラムに触発されるからだと思うのですがいかがなものでしょうか。
 もちろんここで言っているプログラムというのは「何らかの物語」があって、それを音でなぞっているというようなレベルの話ではありません。時々いますね。「ここは小川のせせらぎをあらわしているんですよ。次のところは田舎に着いたうれしい感情の表現ですね。」というお気楽モードの解説が・・・(^^;(R.シュトラウスの一連の交響詩みたいな、そういうレベルでの優れものはあることにはありますが。あれはあれで凄いです!!!)
 
 私は、チャイコフスキーは創作にかかわって他の人よりは「正直」だっただけではないのかと思います。ただ、この6番のプログラムは極めて私小説的なものでした。それ故に彼は公表することを望まなかったのだと思います。
 「今度の交響曲にはプログラムはあるが、それは謎であるべきもので、想像する人に任せよう。このプログラムは全く主観的なものだ。私は旅行中に頭の中でこれを作曲しながら幾度となく泣いた。」
 チャイコフスキーのこの言葉に、「悲愴」のすべてが語られていると思います。

ひたすら「怖い」演奏です。


チャイコフスキーの交響曲は、クレンペラーの数ある録音の中ではほとんど話題になることはありません。
いってみれば、ミスマッチ。しかし、実際に聞いてみると「さすがはクレンペラー!!」とビックリマークが2つつくくらいの面白さは充分にあります。

取りあえずは、61年に録音された第6番「悲愴」から紹介します。残りの4番と5番は録音が63年なのでパブリックドメインになるにはあと1年が必要です。

この録音の最大の聞き所は第3楽章です。
もちろん第1楽章も実に立派な交響的構築物として仕上がっていますし、第2楽章の踊ろうとして踊りきれない変則ワルツも不思議な悲しみに満ちていて悪くはありません。
しかし、聞くべきは第3楽章の行進曲です。

これはもう、有り得ないテンポ設定です。(^^;
第3楽章は「スケルツォと行進曲」と言うことで、テンポ設定は「Allegro molto vivace」となっています。
当然のことながら、誰の演奏で聞いても快速テンポで颯爽たる行進曲風に演奏されるものとなっています。この楽章は、例えてみればジェットコースターみたいなもので、速ければ速いほど安定します。一回転をしようが錐揉みをしようが、スピードが乗っていれば誰も落っこちることもなく安心して乗っていられます。「ワーッ!」とか、「キャー!」とか叫ぶのは、それは「安全」だと分かっているから暢気に叫んでいられるのです。
オケのメンバーも然りで、こういう音楽は速いテンポで演奏してくれれば、そのテンポに乗って安心して気分よく演奏ができるのです。当然のことながら、プロならば誰も落っこちる奴なんかいません。

ところが、クレンペラーはそのジェットコースターを低速で運転させます。
さあ、大変です。
死にものぐるいでジェットコースターにしがみついていないと振り落とされてしまいます。そんな時は、間違っても、「ワーッ!」と「キャー!」なんぞという叫び声は出るはずもありません。聞こえてくるのは「ウッ」とか、「グッ」とか言う、のどの奥からくぐもったうめき声がもれてくるだけです。

これは実に怖い風景です。
そして、結果として、この行進曲は屠殺場に引きずり出されるような恐ろしさにつつまれることになります。そして、そう言う怖さにつつまれたまま壮大に終結するので、まるでここで音楽が終わってしまったような錯覚にすら陥ります。

しかしながら、当然のことながら、少し間をおいて最終楽章が始まります。
これがまた、全体として「鬼のイン・テンポ」で演奏されるので、まさにパセティックな感情が壮大に爆発していきます。そして、その爆発の後に、音楽は静かに静かに永遠の闇の彼方へと消え去っていきます。
この終わり方が、またまた怖い。

ここには、チャイコフスキー的なメランコリックな甘さはほとんどなく、音楽は交響的構築物として築き上げられていくばかりです。その意味では、ムラヴィンスキーとベクトルは同じように思うのですが、出来上がった音楽は全く別の代物になってしまっています。
ムラヴィンスキーの悲愴はこんなに怖くはなく、ひたすら立派な音楽を聴いたという充実感が残ります。
ところが、クレンペラーの悲愴はひたすら怖い音楽を聴いたという思いしか残りません。

この「怖さ」は悲愴という作品の中に封印されていた一つの「本質」なのでしょう。そして、その解いてはいけない封印を解いた数少ない指揮者の一人がクレンペラーだったのでしょう。
おそらく、悲愴の「名盤」選びをすれば、この録音は絶対に選ばれることはないでしょう。しかし、あれやこれやの録音を聞いた後にこの演奏を聴けば、誰もが「さすがはクレンペラー!!」とビックリマークを2つつけた意味も理解してもらえるでしょう。

しかし、間違っても、落ち込んだときに、ましてや夜遅く一人で聞いてはいけない演奏です。