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ホルスト:大管弦楽のための組曲「惑星」 作品32


カラヤン指揮 ウィーンフィル 1959年3月23日?4月9日録音をダウンロード


占星術からイメージされた音楽



ホルストは随分と占星術に凝っていたようで、かなり専門的に勉強もしていたようです。その様な占星術への傾倒の中で生み出されたのがこの組曲「惑星」でした。
ユング君はこういう方面はあまり詳しくないのでよく分からないのですが、占星術ではそれぞれの惑星に固有の性格というかイメージを与えているようです。
その様なイメージを音によって再現して見せたのがこの「惑星」だというわけです。

しかし、よく聞いてみると、ホルストは占星術から多大なインスピレーションは得ていますが、必ずしもそれにとらわれてはいないようです。彼は占星術からのイメージをそれぞれの楽章の標題としていますが、音楽がつむぎだすイメージはより雄大です。

なお、最近になって“冥王星”を付け加えて演奏される機会が増えてきているそうです。ケント・ナガノが作曲依頼をして、ホルスト協会の会長であるコリン・マシューズが新たに作曲したもので、英国ではこのスタイルで演奏することが慣習になりつつあるとか・・・。

正直、この話を聞いてケント・ナガノに対するユング君の評価急降下しました。それこそ、絵に描いたような「余計なお世話」だと思うのですが、いかがでしょうか。

<2006年8月26日追記>
冥王星が惑星の地位から転落して、太陽系の惑星は8個という事になりました。さて、これでケント・ナガノ委嘱によるマシューズ先生の「冥王星」の運命はどうなるのでしょうか?
そんな作品はこの世の中に一度も存在したことなどなかったかのように無視を決め込んで、「僕たち、ずっとホルスト先生の指示通り海王星で演奏を終わってたもんね!!」という態度をとるんでしょうか?
それとも、こういう時こそ根性を見せて、
ホルスト作曲、ケント・ナガノ委嘱によるマシューズ補作:「惑星と矮惑星(ただし、2006年8月の時点において40個以上は発見されていると思われる矮惑星の中ではもっともよく知られていて、一般的には冥王星と名付けられている矮惑星・・・ただし「矮惑星」と言う呼称は2006年8月に行われた惑星の定義確定にともなう中で用いられた暫定的な呼称であるために、今後その呼び方については変更があるかもしれないことに留意されたし」・・・うーーん、長い!!・・・・なんて言う作品名で演奏を続けるのでしょうか?(^^;
だから、いらぬお節介だといったのです。

ちなみに、各曲につけられた標題は以下の通りです。

第1曲:火星 - 戦争の神
Mars, the Bringer of War. Allegro

第2曲:金星 - 平和の神
Venus, the Bringer of Peace. Adagio - Andante - Animato - Tempo I

第3曲:水星 - 翼のある使いの神
Mercury, the Winged Messenger. Vivace

第4曲:木星 - 快楽の神
Jupiter, the Bringer of Jollity. Allegro giocoso - Andante maestoso - Tempo I - Lento maestoso - Presto

第5曲:土星 - 老年の神
Saturn, the Bringer of Old Age. Adagio - Andante

第6曲:天王星 - 魔術の神
Uranus, Magician. Allegro - Lento - Allegro - Largo

第7曲:海王星 - 神秘の神
Neptune, the Mystic. Andante - Allegretto

録音の力を世に知らしめた偉業

イギリスの指揮者は積極的に取り上げていたものの、どうしてもマイナー作品の域を出なかったのがホルストの惑星でした。しかし、このカラヤンの録音によってホルストの惑星は一夜にしてメジャー作品にのし上がってしまいました。そして、日本では、本田美奈子や平原綾香などが取り上げることで、イギリス版ド演歌とも言うべき「木星」は今や知らぬものもないほどの超メジャーな作品になってしまいました。

歴史を振り返ってみると、例えばチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲のように「演奏不可能」とか「悪臭を放つ音楽」と酷評されながらも、初演者だったアドルフ・ブロツキーが繰り返し演奏会で取り上げることでその真価が認識されるという例は珍しくありません。
しかし、このホルストの惑星とカラヤンとの関係は、そう言う過去の例とは一線を画すほどの強烈なインパクト持っていました。それは、録音という媒体を使えば一夜にして景色がかわってしまうことを多くの人々に知らしめたのです。そして、その事実は、レコード(録音)とはコンサートへ足を運べない人のための「仕方のない代替物」ではなく、コンサートと肩を並べるもう一つの重要な音楽活動であることを強烈に印象づけたのです。
その意味では、50年代の早い時期から録音の意義を充分に認識していたカラヤンにとっては、ある意味では会心の出来事であったのかもしれません。その意味では、録音の力を世に知らしめた偉業だと言えます。

ただし、演奏に関しては、80年代以降のデジタル録音で鍛えられたオケの演奏を聞き慣れた耳からすれば、このカラヤンとウィーンフィルによる録音はいささか粗っぽく聞こえるかもしれません。そのあたりは、前回に紹介した「交響詩「ツァラトゥストラはこう語った」にも同じ事が言えます。
カラヤンは、惑星もツァラも80年代にもう一度手兵のベルリンフィルを使って録音しています。それと比べれば、精緻さという点では一歩も二歩もゆずります。
しかし、音楽というものは音符を正確に音に変換しさえすれば、それで優れたもにのになると言うほど単純なものではありません。80年代の録音はそう言う精緻さを得る代わりに、この60年代の録音が持っていたパワーを失ってしまっています。
もちろん、そのパワーを「荒さ」ととらえてこれを好まない人がいても全く怪しみません。

ただ、一つの尺度だけを押しつけてそれで全てを切って捨てれば、聞き手としてもあまりにも多くのものを失うのではないかと懸念します。
50歳を超えたばかりの覇気満々たるカラヤンの、何の衒いもなく音楽を作り上げる魅力を「荒い」のひと言で切り捨てるのはあまりにももったいないともいます。