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ブラームス:交響曲第1番 ハ短調 作品68


カラヤン指揮 ウィーンフィル 1959年3月23日&26日録音をダウンロード


ベートーヴェンの影を乗り越えて



 ブラームスにとって交響曲を作曲するということは、ベートーヴェンの影を乗り越えることを意味していました。それだけに、この第1番の完成までには大変な時間を要しています。

 彼がこの作品に着手してから完成までに要した20年の歳月は、言葉を変えればベートーヴェンの影がいかに大きかったかを示しています。そうして完成したこの第1交響曲は、古典的なたたずまいをみせながら、その内容においては疑いもなく新しい時代の音楽となっています。


 この交響曲は、初演のときから第4楽章のテーマが、ベートーヴェンの第9と似通っていることが指摘されていました。それに対して、ブラームスは、「そんなことは、聞けば豚でも分かる!」と言って、きわめて不機嫌だったようです。

 確かにこの作品には色濃くベートーヴェンの姿が影を落としています。最終楽章の音楽の流れなんかも第9とそっくりです。姿・形も古典派の交響曲によく似ています。
 しかし、ここに聞ける音楽は疑いもなくロマン派の音楽そのものです。

 彼がここで問題にしているのは一人の人間です。人類や神のような大きな問題ではなく、個人に属するレベルでの人間の問題です。
 音楽はもはや神をたたるものでなく、人類の偉大さをたたえるものでもなく、一人の人間を見つめるものへと変化していった時代の交響曲です。

 しかし、この作品好き嫌いが多いようですね。
 嫌いだと言う人は、この異常に気合の入った、力みかえったような音楽が鬱陶しく感じるようです。
 好きだと言う人は、この同じ音楽に、青春と言うものがもつ、ある種思いつめたような緊張感に魅力を感じるようです。

 ユング君は、若いときは大好きでした。
 そして、もはや若いとはいえなくなった昨今は、正直言って少し鬱陶しく感じてきています。(^^;;
 かつて、吉田秀和氏が、力みかえった青春の澱のようなものを感じると書いていて、大変な反発を感じたものですが、最近はこの言葉に幾ばくかの共感を感じます。
 それだけ年をとったということでしょうか。

 なんだか、リトマス試験紙みたいな音楽です。

「カラヤン美学」が感じ取れる録音

カラヤンはよほどこの交響曲が好きだったようで、若い時期からその最晩年に至るまで何度も繰り返して録音を残しています。ですから、以前に50年代のフィルハーモニア管との録音を紹介したときに「59年録音のウィーンフィル盤についてはすでに語り尽くされています。この作品の決定盤と言ってもいいほどの演奏だと言えます。」と紹介しています。
しかしながら、今回、カラヤン&ウィーンフィルによる一連の録音を紹介するための作業の中で久しぶりに聴き直してみたのですが、決定盤と言うにはいささか癖のある演奏だなと感じました。

はっきりと言えば、この演奏には既に、後に「カラヤン美学」と呼ばれる音楽の姿がはっきりと感じ取ることができます。ホルストの惑星やリヒャルト・シュトラウスの「ツァラ」が野性味を感じさせる演奏だったことを思い出すと、これはかなりテイストが違います。
音楽は構築性よりは横への流れを重視していることがすぐに分かります。例えば、第2楽章などは音楽が横へ横へときれいに流れっていって、ウィーンフィルの木目を思わせる響きとも相まって聞き心地は非常にいいです。特に、低弦をしっかりと響かせた上にそれぞれの楽器が美しく響くので、おそらくこれを初めて聞いた当時の人は「うっとり」したであろう事は容易に想像がつきます。ここには、若い時代に「ドイツのミニ・トスカニーニ」といわれた面影は全くなくて、まさにカラヤンならではの個性が刻印されています。
ですから、問題は、その個性を受け入れることができるかどうかが問題になります。「こんな美しいブラームスは聴いたことがない」ということで、ある人は絶賛し、ある人は拒絶するという次第です。そう言う意味では、これはこれで、一つのターニングポイントとなった録音なのかもしれません。

そして、個人的な感想を言わせてもらえれば、70年代のドーピングを思わせる音楽ほどには「薬」はまわっていませんので、これはこれで充分に楽しめるかなと思っています。もちろん、基本的には私の好みではありませんが、こういうブラームスが存在しても悪くはないと思います。
ただし、かつて「この作品の決定盤と言ってもいいほどの演奏」だと述べたことは、謹んで取り下げておきたいとは思います。m(_ _)M