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ベートーベン:ヴァイオリンソナタ第7番 ハ短調 作品30の2
Vn:オイストラフ P:オボーリン 1962年録音をダウンロード
- ベートーベン:ヴァイオリンソナタ第7番 ハ短調 作品30の2 「第1楽章」
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初期に集中するベートーベンのヴァイオリンソナタ
ベートーベンのヴァイオリンソナタは、9番と10番をのぞけばその創作時期は「初期」といわれる時期に集中しています。9番と10番はいわゆる「中期」といわれる時期に属する作品であり、このジャンルにおいては「後期」に属する作品は存在しません。
ピアノソナタはいうまでもなくチェロソナタにおいても、「後期」の素晴らしい作品を知っているだけに、この事実はちょっと残念なことです。
ベートーベンはヴァイオリンソナタを10曲残しているのですが、いくつかのグループに分けられます。
まずは「Op.12」として括られる1番から3番までの3曲のソナタです。この作品は、映画「アマデウス」で、すっかり悪人として定着してしまったサリエリに献呈されています。
いずれもモーツァルトの延長線上にある作品で、「ヴァイオリン助奏付きのピアノソナタ」という範疇を出るものではありません。しかし、その助奏は「かなり重要な助奏」になっており、とりわけ第3番の雄大な楽想は完全にモーツァルトの世界を乗り越えています。
また、この第3番のピアノパートがとてつもなく自由奔放であり、演奏者にかなりの困難を強いることでも有名です。
続いて、「Op.23」と「Op.24」の2曲です。この二つのソナタは当初はともに23番の作品番号で括られていたのですが、後に別々の作品番号が割り振られました。
ベートーベンという人は、同じ時期に全く性格の異なる作品を創作するということをよく行いましたが、ここでもその特徴がよくあらわれています。悲劇的であり内面的である4番に対して、「春」という愛称でよく知られる5番の方は伸びやかで外面的な明るさに満ちた作品となっています
次の6番から8番までのソナタは「Op.30」で括られます。この作品はロシア皇帝アレクサンドルからの注文で書かれたもので「アレキサンダー・ソナタ」と呼ばれています。
この3つのソナタにおいてベートーベンはモーツァルトの影響を完全に抜け出しています。そして、ヴァイオリンソナタにおけるヴァイオリンの復権を目指したのベートーベンの独自な世界はもう目前にまで迫っています。
特に第7番のソナタが持つ劇的な緊張感と緻密きわまる構成は今までのヴァイオリンソナタでは決して聞くことのできなかったスケールの大きさを感じさせてくれます。また、6番の第2楽章の美しいメロディも注目に値します。
そして、「クロイツェル」と呼ばれる、ヴァイオリンソナタの最高傑作ともいうべき第9番がその後に来ます。
「ほとんど協奏曲のように、極めて協奏風に書かれた、ヴァイオリン助奏付きのピアノソナタ」というのがこの作品に記されたベートーベン自身のコメントです。
ピアノとヴァイオリンという二つの楽器が自由奔放かつ華麗にファンタジーを歌い上げます。中期のベートーベンを特徴づける外へ向かってのエネルギーのほとばしりを至るところで感じ取ることができます。
ヴァイオリンソナタにおけるヴァイオリンの復権というベートーベンがこのジャンルにおいて目指したものはここで完成され、ロマン派以降のヴァイオリンソナタは全てこの延長線上において創作されることになります。
そして最後にポツンと創作されたような第10番のソナタがあります。
このソナタはコンサート用のプログラムとしてではなく、彼の有力なパトロンであったルドルフ大公のために作られた作品であるために、クロイツェルとは対照的なほどに柔和でくつろいだ作品となっています。
若書きゆえの弱さみたいなものがあぶり出されているのでしょうか?
これもまた、今さら何もつけ加える必要もない「歴史的名演」です。オイストラフのヴァイオリンの力強く、そして美しいヴィブラートを伴った輝かしい音色は文句なく素晴らしいです。そして、それを支えるオボーリンのピアノは常に背筋がしゃんと伸びています。あごをグッと引いて真摯に前を見つめている眼差しが素敵です。特に作品12の3作でのオボーリンのピアノは絶品です。
ところが、どういうわけか、長きにわたって私はこの録音があまり好きではありませんでした。
ただし、この「好きでない」というのはオイストラフ&オポーリンのコンビに限った話ではなく、実は他の演奏家によるどの演奏を聴いても同じでした。
ですから、「ベートーベンもヴァイオリンソナタに関してはいまいちだね!」などと恐れ多いことをほざいていたのでした。>w< ) ナヌッ!
とんでもないことを書いていました。(^^;
そして、発見したのがシュナイダーハン&ケンプのコンビによる50年代初頭の録音でした。
とにかくシュナイダーハンの音色が素晴らしいです。
やや細身かもしれませんが実に艶やかな美音を振りまいてくれます。さすがはウィーンフィル最高のコンマスと讃えられただけのことはあるウィーンの音色です。そして、そのような美音を持っていながら決してそれにもたれかかることなく、できあがってくる音楽はガッシリとした構築性を堅持していることがさらにすごいのです。
わたしはこれを、「すごい美人でありながら、その美貌に決して甘えることなく黙々と仕事に励む女性を見る思いです。」などと書いていました。
そして、このコンビによる録音と出会うことで、オイストラフ&オボーリンのコンビによる録音になぜに不満を感じた理由が分かったような気がしました。
こちらの演奏を女性に例えてみれば、才色兼備の女性が自信と意欲を持って完璧に仕事を仕上げていくような雰囲気なのです。もちろん、仕事に臨む姿勢にも、仕上がりのクオリティにも何の問題もありません。ですから、その仕事ぶりには感心はさせられるのですが、なぜか見る人の「情」が動かないのです。
そして、こんな事を書くと恐れ多いことなのですが、仕事の仕上がりが完璧であればあるほど、ベートーベンの若書きゆえの弱さみたいなものがあぶり出されていくような気もするのです。そう言う意味では、シュナイダーハン&ケンプのコンビによる50年代初頭の録音では、そう言う弱さみたいな部分が上手く「情」と「艶」でくるまれていました。
ですから、クロイツェルみたいな作品だと、作品そのものの立派さゆえにそう言う不満もあまり感じなくなります。
立派な演奏と録音であることは事実なのですが、やはりどこかで不満を言い立てる自分はいることは今も否定はできていません。