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ハイドン:交響曲第103番 変ホ長調 「太鼓連打」
カラヤン指揮 ウィーンフィル1963年4月9~11日録音をダウンロード
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ザロモン演奏会の概要
エステルハージ候の死によって事実上自由の身となってウィーンに出てきたハイドンに、「イギリスで演奏会をしませんか」と持ちかけてきたのがペーター・ザロモンでした。
彼はロンドンにおいてザロモン・コンサートなる定期演奏会を開催していた興行主でした。
当時ロンドンでは彼の演奏会とプロフェッショナル・コンサートという演奏会が激しい競争状態にありました。そして、その競争相手であるプロフェッショナル・コンサートはエステルハージ候が存命中にもハイドンの招聘を何度も願い出ていました。しかし、エステルハージ候がその依頼には頑としてイエスと言わなかったために、やむなく別の人物を指揮者として招いて演奏会を行っていたという経緯がありました。
それだけに、ザロモンはエステルハージ候の死を知ると素早く行動を開始し、破格とも言えるギャランティでハイドンを口説き落とします。
そのギャラとは、伝えられるところによると、「新作の交響曲に対してそれぞれ一曲あたり300ポンド、それらの指揮に対して120ポンド」等々だったといわれています。ハイドンが30年にわたってエステルハ?ジ家に仕えることで貯蓄できたお金は200ポンドだったといわれますから、これはまさに「破格」の提示でした。
このザロモンによる口説き落としによって、1791年・1792年・1794年の3年間にハイドンを指揮者に招いてのザロモン演奏会が行われることになりました。そして、ハイドンもその演奏会のために93番から104番に至る多くの名作、いわゆる「ザロモン・セット」とよばれる交響曲を生み出したわけですから、私たちはザロモンに対してどれほどの感謝を捧げたとして捧げすぎるということはありません。
第1期ザロモン交響曲(第93番?98番)
1791年から92年にかけて作曲され、演奏された作品を一つにまとめて「第1期ザロモン交響曲」とよぶのが一般化しています。この6曲は、91年に作曲されて、その年に初演された96番と95番、91年に作曲されて92年に初演された93番と94番、そして92年に作曲されてその年に初演された98番と97番という三つのグループに分けることが出来ます。
<第1グループ>
・96番「奇跡」:91年作曲 91年3月11日初演
・95番 :91年作曲 91年4月1日or4月29日初演
<第2グループ>
・93番 :91年作曲 92年2月17日初演
・94番「驚愕」:91年作曲 92年3月23日初演
<第3グループ>
・98番 :92年作曲 92年3月2日初演
・97番 :92年作曲 92年5月3日or5月4日初演
91年はハイドンを招いての演奏会は3月11日からスタートし、その後ほぼ週に一回のペースで行われて、6月3日にこの年の最後の演奏会が行われています。これ以外に5月16日に慈善演奏会が行われたので、この年は都合13回の演奏会が行われたことになります。
これらの演奏会は「聴衆は狂乱と言っていいほどの熱狂を示した」といわれているように、ザロモン自身の予想をすら覆すほどの大成功をおさめました。また、ハイドン自身も行く先々で熱狂的な歓迎を受け、オックスフォード大学から音楽博士号を受けるという名誉も獲得します。
この大成功に気をよくしたザロモンは、来年度もハイドンを招いての演奏会を行うということを大々的に発表することになります。
92年はプロフェッショナル・コンサートがハイドンの作品を取り上げ、ザロモン・コンサートの方がプレイエルの作品を取り上げるというエールの交換でスタートします。
そして、その翌週の2月17日から5月18日までの12回にわたってハイドンの作品が演奏されました。この年は、これ以外に6月6日に臨時の追加演奏会が行われ、さらに5月3日に昨年同様に慈善演奏会が行われています。
第2期ザロモン交響曲(第99番?104番)
1974年にハイドンはイギリスでの演奏会を再び企画します。
しかし、形式的には未だに雇い主であったエステルハージ候は「年寄りには静かな生活が相応しい」といって容易に許可を与えようとはしませんでした。このあたりの経緯の真実はヤブの中ですが、結果的にはイギリスへの演奏旅行がハイドンにとって多大な利益をもたらすことを理解した候が最終的には許可を与えたということになっています。
しかし、経緯はどうであれ、この再度のイギリス行きが実現し、その結果として後のベートーベンのシンフォニーへとまっすぐにつながっていく偉大な作品が生み出されたことに私たちは感謝しなければなりません。
この94年の演奏会は、かつてのような社会現象ともいうべき熱狂的な騒ぎは巻き起こさなかったようですが、演奏会そのものは好意的に迎え入れられ大きな成功を収めることが出来ました。
演奏会はエステルハージ候からの許可を取りつけるに手間取ったために一週間遅れてスタートしました。しかし、2月10日から始まった演奏会は、いつものように一週間に一回のペースで5月12日まで続けられました。そして、この演奏会では99番から101番までの三つの作品が演奏され、とりわけ第100番「軍隊」は非常な好評を博したことが伝えられています。
・ 99番 :93年作曲 94年2月10日初演
・101番「時計」:94年作曲 94年3月3日初演
・100番「軍隊」:94年作曲 94年3月31日初演
フランス革命による混乱のために、優秀な歌手を呼び寄せることが次第に困難になったためにザロモンは演奏会を行うことが難しくなっていきます。そして、1795年の1月にはついに同年の演奏会の中止を発表します。しかし、イギリスの音楽家たちは大同団結をして「オペラ・コンサート」と呼ばれる演奏会を行うことになり、ハイドンもその演奏会で最後の3曲(102番?104番)を発表しました。
そのために、厳密にいえばこの3曲をザロモンセットに数えいれるのは不適切かもしれないのですが、一般的にはあまり細かいことはいわずにこれら三作品もザロモンセットの中に数えいれています。
ただし、ザロモンコンサートが94年にピリオドをうっているのに、最後の三作品の初演が95年になっているのはその様な事情によります。
このオペラコンサートは2月2日に幕を開き、その後2週間に一回のペースで開催されました。そして、5月18日まで9回にわたって行われ、さらに好評に応えて5月21日と6月1日に臨時演奏会も追加されました
・102番 :94年作曲 95年2月2日初演
・103番「太鼓連打」:95年作曲 95年3月2日初演
・104番「ロンドン」:95年作曲 95年5月4日初演
ハイドンはこのイギリス滞在で2400ポンドの収入を得ました。そして、それを得るためにかかった費用は900ポンドだったと伝えられています。エステルハージ家に仕えた辛苦の30年で得たものがわずか200ポンドだったことを考えれば、それは想像もできないような成功だったといえます。
ハイドンはその収入によって、ウィーン郊外の別荘地で一切の煩わしい出来事から解放されて幸福な最晩年をおくることができました。ハイドンは晩年に過ごしたこのイギリス時代を「一生で最も幸福な時期」と呼んでいますが、それは実に納得のできる話です。
カラヤンという音楽家が持っている美質が最も自然に表現されている「優れもの」
過去にこんな事を書いたので、新しくパブリックドメインとなったカラヤンのデッカ録音を追加します。この横へ横へと気持ちよく旋律線が流れていく音楽作りをどう受け取るかによって評価は随分かわってくるでしょうね。それから、ウィーンフィルの響きの美しさをうまくすくい取ったデッカ録音をどこまで楽しめるか、も大きなポイントかと思います。
私は、とんでもない状況で録音されたらしい「ジゼル」でさえ、ウィーンフィルの美音をフルに活用してそれなりに聞かせてしまうカラヤンの手腕には感心させられました。
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ウィーンフィルとコンビを組んだ一連のデッカ録音は今ではすっかり影が薄くなってしまいました。しかし、彼が1959年にまとめて録音した3つの音楽(ベトーベンの7番、ハイドンのロンドン交響曲、そしてモーツァルトのト短調交響曲)をこうして聴き直してみると、「意外といいね」というレベルではなく、もしかしたらカラヤンという音楽家が持っている美質が最も自然に表現されている「優れもの」ではないかと思うようになりました。
カラヤンという人は、例えばクレンペラーのように、もしくはヴァントのように、煉瓦を一つずつ丹念に積み上げていって巨大な構築物を作り上げるような音楽家ではありません。そうではなくて、横への流れを重視し、明確な意志を持ってクッキリとメロディラインを描き出すことに重きを置いた音楽家でした。
そして、この国の通のクラシック音楽ファンはどういう訳か、、前者のようなスタンスは後者のスタンスにに対して優位性を持ったものとしてきました。
口の悪い私の友人などは、「カラヤンの音楽って何を聞いても映画音楽みたい」と宣っていたものでした。
しかし、そう言う理解の仕方には大きな間違いがあることに私も最近になって気づくようになりました。
確かにカラヤンの音楽は気持ちよく横へ横へと流れていきます。その意味では、耳あたりのいい映画音楽のように聞こえるのかもしれません。
しかし、聞く耳をしっかり持っていれば、メロディラインが横へ横へと気持ちよく流れていっても、そこで鳴り響くオケの音は決して映画音楽のように薄っぺらいものでないことは容易に聞き取れるはずです。映画音楽が一般的に薄っぺらく聞こえるのは、耳に届きやすい主旋律はしっかり書き込んでいても、それを本当に魅力ある響きへと変えていく内声部がおざなりにしか書かれていないことが原因です。
そして、例え響きを魅力あるものに変える内声部がしっかりと書き込まれていても、主旋律にしか耳がいかない凡庸な指揮者の棒だと、それもまた薄っぺらい音楽になってしまうことも周知の事実です。
当然の事ですが、カラヤンはそのような凡庸な音楽家ではありません。
カラヤンの耳は全ての声部に対してコントロールを怠りませんし、それらの声部を極めてバランスよく配置していく能力には驚かされます。そして、彼の真骨頂は、強靱な集中力でそのような絶妙なバランスを保ちながら、確固とした意志でぐいぐいと旋律線を描き出していく「強さ」を持っていることです。
それは、例えてみれば、極めてコントロールしにくいレーシングカーで複雑な曲線路を勇気を持って鮮やかに走り抜けるようなものかもしれません。彼は、目の前の曲線路の中に己が走り抜けるべきラインをしっかりと設定すると、そのラインに躊躇うことなく突っ込んでいきます。カーブの入り口で様子を見ながら少しずつハンドルを切るというような、凡庸な指揮者がやるよう不細工なことは決してしないのです。
ベートーベンの7番の第2楽章などは、そう言うカラヤンの美質が良く出た音楽ですし、ハイドンのロンドン交響曲も、こんなにもメロディラインが美しい音楽だったのか!と驚かされます。
モーツァルトト短調シンフォニーも本当に流麗な作りですが、ただし、その流麗さが過ぎて鼻につく人もいるかもしれません。(それって、あんたのことでしょう^^;)
そして、もう一つ特筆すべき事は、このウィーンフィルとの録音ではそのようなカラヤンの美質が極めて自然な形で実現していることです。おそらく、カラヤンが目指そうとした音楽の形とウィーンフィルの本能が上手くマッチングしているのでしょう。ここには、後のカラヤン美学全開のベルリンフィルとの音楽のような「人工臭」が全くありません。
もちろん、カラヤンの強烈な個性とそれを現実のものにするベルリンフィルの高度の合奏能力、とりわけ弦楽器群の優れた響きによって実現された響きは、20世紀のオーケストラ美学の一つの到達点であったことは否定しません。しかし、その磨き抜かれた響きのあまりの完成度の高さゆえに、そして横への流れがあまりにも重視されすぎることでリズム感が希薄になる部分もあったりして、結果として作り物めいた違和感を感じる場面があったことも否定できません。
それと比べると、このウィーンフィルとの録音は、カラヤンらしい美しさは堪能できるし、その美しさには一切の作り物めいた不自然さは感じられません。ですから、カラヤンという音楽家が持っている美質が最も自然に表現されている「優れもの」と感じたのです。
これはもう、残りのデッカ録音も全てアップしないといけませんね。