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シューマン:ピアノ協奏曲 イ短調 作品54


ワルター指揮 (P)イストミン コロンビア交響楽団 1960年1月20&24日録音2月22日録音をダウンロード

  1. シューマン:ピアノ協奏曲 イ短調 作品54「第1楽章」
  2. シューマン:ピアノ協奏曲 イ短調 作品54「第2楽章」
  3. シューマン:ピアノ協奏曲 イ短調 作品54「第3楽章」

私はヴィルトゥオーソのための協奏曲は書けない。



 クララに書き送った手紙の中にこのような一節があるそうです。そして「何か別のものを変えなければならない・・・」と続くそうです。そういう試行錯誤の中で書かれたのが「ピアノと管弦楽のための幻想曲」でした。

 そして、その幻想曲をもとに、さらに新しく二つの楽章が追加されて完成されたのがこの「ピアノ協奏曲 イ短調」です。

 協奏曲というのは一貫してソリストの名人芸を披露するためのものでした。
 そういう浅薄なあり方にモーツァルトやベートーベンも抵抗をしてすばらしい作品を残してくれましたが、そういう大きな流れは変わることはありませんでした。(というか、21世紀の今だって基本的にはあまり変わっていないようにも思えます。)

 そういうわけで、この作品は意図的ともいえるほどに「名人芸」を回避しているように見えます。いわゆる巨匠の名人芸を発揮できるような場面はほとんどなく、カデンツァの部分もシューマンがしっかりと「作曲」してしまっています。
 しかし、どこかで聞いたことがあるのですが、演奏家にとってはこういう作品の方が難しいそうです。
 単なるテクニックではないプラスアルファが求められるからであり(そのプラスアルファとは言うまでもなく、この作品の全編に漂う「幻想性」です。)、それはどれほど指先が回転しても解決できない性質のものだからです。

 また、ショパンのように、協奏曲といっても基本的にはピアノが主導の音楽とは異なって、ここではピアノとオケが緊密に結びついて独特の響きを作り出しています。この新しい響きがそういう幻想性を醸し出す下支えになっていますから、オケとのからみも難しい課題となってきます。
 どちらにしても、テクニック優先で「俺が俺が!」と弾きまくったのではぶち壊しになってしまうことは確かです。

聞くに値する佳演

どうしてワルターは最後の最後にポツンとこのコンチェルトを録音したのでしょう。ワルターにとってシューマンというのはそれほど頻繁に取り上げるレパートリーではなかっただけに不思議と言えば不思議です。
おまけに、ソリストも室内楽の分野で活躍したユージン・イストミンを起用しているので、地味と言えば地味です。商業的に成功するとも思えないような組み合わせだけに、実に不思議です。

しかし、調べてみると、この最後の最後となったこの時期に、ワルターは驚くほど精力的に録音活動を行っています。
たとえば、このコンチェルトを録音した翌年の1961年はワルターのとって指揮活動にとっては最後の年になるのですが(ワルターの最後の録音は61年3月の魔笛やフィガロの序曲です。)、実に意欲的に録音活動を行っています。
1961年はわずか3ヶ月しか活動時期がなかったのに、マーラーの1番と9番を1月に、そしてドヴォルザークの8番を2月に、そして最後となった3月にはブルックナーの7番とハイドンの交響曲を2曲、そして最後の最後にモーツァルトの序曲を録音しています。

確かに、人というのは己の最後の時期というのはなかなか分からないものです。おそらく、後から見ればワルターの最後の輝きとなった61年という年は、ワルター自身にとってはまだまだ意欲に満ちていた時期だったのかもしれません。
おかげで、それほど積極的とも思えなかったシューマンの作品なんかも「取り上げてみようか!」みたいな気になって、素晴らしい録音を残してくれたのかもしれません。

それにしても、この演奏はシューマンのコンチェルトとしてはずいぶんと健康的で明るい演奏に仕上がっています。

イストミンは基本的に室内楽の分野で活躍した人ですから、いわゆるソリストにありがちな「俺が俺が」といういやらしさが全くありません。シューマンのスコアを実に丁寧に音に変えていくという風情で、どんな細かい部分でも手に取るように分からせてくれます。
そして、それをサポートするワルターも実に明るくさわやかに伴奏をつけています。オケの響きや気構えからも実に若々しい伸びやかさを感じます。

シューマンと言えばもっと幻想的で曲線的な演奏が好まれるとは思うのですが、これはそう言うシューマンとは対極にあります。

名演・名盤にはならないでしょうが、聞くに値する佳演です。