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ベルリオーズ:幻想交響曲 作品14

ミュンシュ指揮 ボストン交響楽団 1962年4月7日録音

  1. ベルリオーズ:幻想交響曲 作品14「第1楽章」
  2. ベルリオーズ:幻想交響曲 作品14「第2楽章」
  3. ベルリオーズ:幻想交響曲 作品14「第3楽章」
  4. ベルリオーズ:幻想交響曲 作品14「第4楽章」
  5. ベルリオーズ:幻想交響曲 作品14「第5楽章」



ベートーベンのすぐ後にこんな交響曲が生まれたとは驚きです。

ユング君はこの作品が大好きでした。「でした。」などと過去形で書くと今はどうなんだと言われそうですが、もちろん今も大好きです。なかでも、この第2楽章「舞踏会」が大のお気に入りです。

 よく知られているように、創作のきっかけとなったのは、ある有名な女優に対するかなわぬ恋でした。
 相手は、人気絶頂の大女優であり、ベルリオーズは無名の青年音楽家ですから、成就するはずのない恋でした。結果は当然のように失恋で終わり、そしてこの作品が生まれました。

 しかし、凄いのはこの後です。
 時は流れて、立場が逆転します。
 女優は年をとり、昔年の栄光は色あせています。
 反対にベルリオーズは時代を代表する偉大な作曲家となっています。
 ここに至って、漸くにして彼はこの恋を成就させ、結婚をします。

 やはり一流になる人間は違います。ユング君などには想像もできない「しつこさ」です。(^^;

 しかし、この結婚はすぐに破綻を迎えます。理由は簡単です。ベルリオーズは、自分が恋したのは女優その人ではなく、彼女が演じた「主人公」だったことにすぐに気づいてしまったのです。
 恋愛が幻想だとすると、結婚は現実です。そして、現実というものは妥協の積み重ねで成り立つものですが、それは芸術家ベルリオーズには耐えられないことだったでしょう。「芸術」と「妥協」、これほど共存が不可能なものはありません。

 さらに、結婚生活の破綻は精神を疲弊させても、創作の源とはなりがたいもので、この出来事は何の実りももたらしませんでした。
 狂おしい恋愛とその破綻が「幻想交響曲」という実りをもたらしたことと比較すれば、その差はあまりにも大きいと言えます。

 凡人に必要なもは現実ですが、天才に必要なのは幻想なのでしょうか?それとも、現実の中でしか生きられないから凡人であり、幻想の中においても生きていけるから天才ののでしょうか。
 ユング君も、この舞踏会の幻想の中で考え込んでしまいます。

なお、ベルリオーズはこの作品の冒頭と格楽章の頭の部分に長々と自分なりの標題を記しています。参考までに記しておきます。

「感受性に富んだ若い芸術家が、恋の悩みから人生に絶望して服毒自殺を図る。しかし薬の量が足りなかったため死に至らず、重苦しい眠りの中で一連の奇怪な幻想を見る。その中に、恋人は1つの旋律となって現れる…」
第1楽章:夢・情熱

「不安な心理状態にいる若い芸術家は、わけもなく、おぼろな憧れとか苦悩あるいは歓喜の興奮に襲われる。若い芸術家が恋人に逢わない前の不安と憧れである。」

第2楽章:舞踏会

「賑やかな舞踏会のざわめきの中で、若い芸術家はふたたび恋人に巡り会う。」

第3楽章:野の風景

「ある夏の夕べ、若い芸術家は野で交互に牧歌を吹いている2人の羊飼いの笛の音を聞いている。静かな田園風景の中で羊飼いの二重奏を聞いていると、若い芸術家にも心の平和が訪れる。
無限の静寂の中に身を沈めているうちに、再び不安がよぎる。
「もしも、彼女に見捨てれられたら・・・・」
1人のの羊飼いがまた笛を吹く。もう1人は、もはや答えない。
日没。遠雷。孤愁。静寂。」

第4楽章:断頭台への行進

「若い芸術家は夢の中で恋人を殺して死刑を宣告され、断頭台へ引かれていく。その行列に伴う行進曲は、ときに暗くて荒々しいかと思うと、今度は明るく陽気になったりする。激しい発作の後で、行進曲の歩みは陰気さを加え規則的になる。死の恐怖を打ち破る愛の回想ともいうべき”固定観念”が一瞬現れる。」

第5楽章:ワルプルギスの夜の夢

「若い芸術家は魔女の饗宴に参加している幻覚に襲われる。魔女達は様々な恐ろしい化け物を集めて、若い芸術家の埋葬に立ち会っているのだ。奇怪な音、溜め息、ケタケタ笑う声、遠くの呼び声。
”固定観念”の旋律が聞こえてくるが、もはやそれは気品とつつしみを失い、グロテスクな悪魔の旋律に歪められている。地獄の饗宴は最高潮になる。”怒りの日”が鳴り響く。魔女たちの輪舞。そして両者が一緒に奏される・・・・」

とてつもない妄想の爆発


吉田大明神はレコードだけで演奏を評価するのは難しいと語っていました。特に、ソリストの場合はどの程度の音量で演奏しているのかが全く分からないのが困るとも語っていました。
確かに、再生システムが変わると演奏の雰囲気が随分かわります。

それぞれの人はそれぞれの再生システムで音楽を聞いています。録音をもとにした批評というのはずいぶんとあやふやなものにならざるを得ないことは肝に銘じておく必要があります。

どんなにすぐれた録音技術を持ってしても、さらにはどれほど磨き上げた再生システムをもってしても、現実の録音現場で鳴り響いていた音を超えることはありません。
現実の演奏がプアな響きであればプアな音でしか再生できません。これは間違いありません。

しかし、プアな音で再生されたからと言って現実の演奏がプアであった証拠にはなりません。

それだけでは、十分条件を満たしても必要条件までは満たしていません。
もしかしたら、プアなのは演奏の方ではなくて再生システムの方かもしれないからです。「細部の見通しが悪い」とか「低弦部のプアな響きにはがっかりさせられる」などという否定的な物言いには十分に注意する必要があります。

どうしてこんな事を書き始めたのかというと、かつてミュンシュの54年盤の幻想を紹介したときにこんな事を書いてしまっていたからです。

「それ(パリ管との67年盤)と比べると、このボストン時代のスタジオ録音はきわめて行儀のよい演奏になっています。これは62年に再録音した演奏でも同じことがいえます。」

何とも馬鹿なことを書いてしまった。これを書いた当時の再生ステムでは、この62年盤の凄さが全く再現できていなかったのです。

「第3楽章:野の風景」の繊細であっても深い情念のこもったピアニシモの表現から、「第4楽章:断頭台への行進」「第5楽章:ワルプルギスの夜の夢」におけるとてつもない妄想の爆発までがものの見事にすくい取られた録音です。ですから、この演奏を「きわめて行儀のよい演奏」などというのはお馬鹿の極みです。

そして、こういう形で幻想を聞かせてくれると、何故に古楽器によるピリオド演奏というものがつまらないものだったかがはっきりと分かります。

ピリオド演奏を主張する人たちは、作曲家の意志に忠実という概念を拡張させて、スコアだけでなく楽器や演奏様式まで時代に合わせるべきだと言います。これは裏返せば、作曲家にとって最も理想としていた響きは彼らが生きていた時代の楽器によって表現されるものだということになります。
しかし、これはあまりにも作曲家を馬鹿にした話ではないでしょうか。
こういう主張は、いかに偉大な作曲家といえども彼らの創造力は時代の制約の中に閉じこめられていて、そこから一歩もでることはないと断言しているのです。

こういう思考実験をしてみましょう。
ベルリオーズが現代に舞い戻ってきて、二つの録音を聞きます。
一つはこのミュンシュによるこの62年盤、もう一つはガーディナー&ORRによる91年盤。

もしかしたら、ミュンシュ&ボストン響による響きはベルリオーズほどの天才であっても想定の範囲を超えるものかもしれません。しかし、ベルリオーズの天才をもってすれば、彼はきっとミュンシュの演奏をとるでしょう。
そして、ガーディナーの演奏に対しては、当時の常識に従って冷静にいくつもだめ出しをするかもしれません。

作曲家のイマジネーションは常に時代の制約を超えようとします。
演奏という行為にとって重要なことは、時代の制約を超えようとするイマジネーションに対して、現在の演奏家がもつイマジネーションで応えることです。
時代の制約の中で、仕方なしにチマチマと鳴り響いていた音の外面をなぞる行為などには何の意味もありません。

そして、そのことは、「スコアに忠実」という何の意味もなさない隠れ蓑にも当てはまることです。
何のイマジネーションを働かせることもなく、ただひたすらにスコアを正確に音に変換しているだけなら、それはあまりにもむなしい行為だと言わざるを得ません。

ミュンシュ、凄いです!!