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チャイコフスキー:交響曲第6番 ロ短調 作品74「悲愴」

ドラティ指揮 ロンドン交響楽団 1960年6月17&18日録音

  1. チャイコフスキー:交響曲第6番 ロ短調 作品74「悲愴」「第1楽章」
  2. チャイコフスキー:交響曲第6番 ロ短調 作品74「悲愴」「第2楽章」
  3. チャイコフスキー:交響曲第6番 ロ短調 作品74「悲愴」「第3楽章」
  4. チャイコフスキー:交響曲第6番 ロ短調 作品74「悲愴」「第4楽章」

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私は旅行中に頭の中でこれを作曲しながら幾度となく泣いた。

 チャイコフスキーの後期の交響曲は全て「標題音楽」であって「絶対音楽」ではないとよく言われます。それは、根底に何らかの文学的なプログラムがあって、それに従って作曲されたというわけです。
 もちろん、このプログラムに関してはチャイコフスキー自身もいろいろなところでふれていますし、4番のようにパトロンであるメック夫人に対して懇切丁寧にそれを解説しているものもあります。
 しかし6番に関しては「プログラムはあることはあるが、公表することは希望しない」と語っています。弟のモデストも、この6番のプログラムに関する問い合わせに「彼はその秘密を墓場に持っていってしまった。」と語っていますから、あれこれの詮索は無意味なように思うのですが、いろんな人が想像をたくましくしてあれこれと語っています。

 ただ、いつも思うのですが、何のプログラムも存在しない、純粋な音響の運動体でしかないような音楽などと言うのは存在するのでしょうか。いわゆる「前衛」という愚かな試みの中には存在するのでしょうが、私はああいう存在は「音楽」の名に値しないものだと信じています。人の心の琴線にふれてくるような、音楽としての最低限の資質を維持しているもののなかで、何のプログラムも存在しないと言うような作品は存在するのでしょうか。
 例えば、ブラームスの交響曲をとりあげて、あれを「標題音楽」だと言う人はいないでしょう。では、あの作品は何のプログラムも存在しない純粋で絶対的な音響の運動体なのでしょうか?私は音楽を聞くことによって何らかのイメージや感情が呼び覚まされるのは、それらの作品の根底に潜むプログラムに触発されるからだと思うのですがいかがなものでしょうか。
 もちろんここで言っているプログラムというのは「何らかの物語」があって、それを音でなぞっているというようなレベルの話ではありません。時々いますね。「ここは小川のせせらぎをあらわしているんですよ。次のところは田舎に着いたうれしい感情の表現ですね。」というお気楽モードの解説が・・・(^^;(R.シュトラウスの一連の交響詩みたいな、そういうレベルでの優れものはあることにはありますが。あれはあれで凄いです!!!)
 
 私は、チャイコフスキーは創作にかかわって他の人よりは「正直」だっただけではないのかと思います。ただ、この6番のプログラムは極めて私小説的なものでした。それ故に彼は公表することを望まなかったのだと思います。
 「今度の交響曲にはプログラムはあるが、それは謎であるべきもので、想像する人に任せよう。このプログラムは全く主観的なものだ。私は旅行中に頭の中でこれを作曲しながら幾度となく泣いた。」
 チャイコフスキーのこの言葉に、「悲愴」のすべてが語られていると思います。

伝説の名録音?マーキュリー・レーベル


今もマーキュリーレーベルの録音は伝説です。
彼らのキャッチフレーズだった「You are there」は、決して誇大広告ではありません。
その録音の特徴は、とびきりの鮮明さと空間いっぱいに広がるダイナミックな響きの見事さにあると言えます。そして、この伝説の録音を実現したのが、録音史上最も耳の良いプロデューサーと言われたウィルマ・コザードでした。

彼は、モノラルならば一本のマイク、ステレオ録音になってからは左右に一本ずつ追加して合計で3本というスタイルを厳格に守り続けました。いわゆるワンポイント録音という手法ですが、これでは3トラックに録音した音を2チャンネルにトラックダウンするだけですから、録音してからの調整などはほとんどできません。
適当なセッティングでも、後からいくらでも調整が可能なマルチマイク録音とは、思想が根本から違うのです。
ベストのマイクセッティングを得るためには天才的な閃きが求められます。

さらに言えば、この録音手法は演奏する側にも多大なるプレッシャーを与えます。
録音してからいかようにも料理できるマルチマイク録音と違って、ワンポイント録音の場合は演奏する側にも一切の誤魔化しを許さないからです。その意味でも、この録音で確認できるオケのクオリティには一切の誤魔化しはないのです。

さらに、コザートは厳格なワンポイント録音にこだわるだけでなく、使用するマイクにはテレフンケンの最高級のものを使い、さらには映像用の35ミリフィルムに特殊な磁気層を塗布した録音テープを使う特製の録音デッキまで用意するという徹底ぶりでした。
そして、そこまでして丁寧にすくい上げた録音データは、当然のようにいかなるリミッターやコンプレッサー、さらにフィルターなども一切使わずにそのままカッティングされました。

「初期のワンポイント録音は、その場の空気感をとらえてあまり音圧を上げずDレンジを広いまま入れるような音作りでした。・・・それらは超高級オーディオで聞けば最高にいい音でもあっても、一般リスナーには・・・迫力不足になりかねないのも事実でした。ですから、現在はどちらのユーザーにも満足してもらえるように・・・両立を心がけています。」なんてことを恥ずかしげもなく語る現在の録音エンジニアに聞かせてやりたいほどの(まあ、知ってはいるでしょうが・・・^^;)徹底ぶりなのです。

このシンプルさへの徹底が、異次元とも言えるような鮮明さととんでもないダイナミックさを実現したのです。
しかし、そんなマーキュリーレーベルも60年代に入って大手フィリップスの傘下にはいると、コザートのような採算度外視の徹底ぶりは経営陣に嫌われて追い出される羽目になります。彼が去ってからもマーキュリーの名前は残ったのですが、その内実は「伝説」と言われたレーベルのものとは全く別物になってしまいました。
いつの時代も大手というのはつまらん存在です。

しかし、コザートが実現した異次元レベルの鮮明さは顕微鏡で毛穴の奥までのぞき込むようなものでした。ですから、その録音はオケのちょっとした荒さであっても、その荒さを白日の下にさらけ出してしまいます。
これが、実に辛いところなのです。

ドラティの録音で言えば、彼が1949年から1960年まで音楽監督を務め、オーケストラビルダーとして鍛え上げていたミネアポリス交響楽団であっても、このコザートの録音だと荒さがどうしても耳についてしまうのです。言葉をかえれば、コザートはそのような部分についても、分かっていながらも一切の容赦も手抜きもしなかったのです。
ところが、オケがロンドン交響楽団なんかだと事情は全く変わってしまうのです。少し前に紹介したドヴォルザークのスラブ舞曲集(1958年4月録音 ミネアポリス交響楽団)では感じた荒さが、ほぼ同時期の録音である交響曲第8番(1959年 ロンドン交響楽団)ではそれほど強く感じないのです。
そのことは、同じくロンドン交響楽団と録音したチャイコフスキーの4番(1960年)や6番(1960年)、ベートーベンの5番(1962年)、6番(1962年)、7番(1963年)などにも言えます。
くるみ割り人形(1962年7月)の時にも感じたのですが、この時期のロンドン交響楽団というのはただ者ではありません。一部では、すでに落ち目になり始めていたという批評もあるのですが、この録音を聞いて落ち目と思うならばほとんどのオケはゴミ同然です。

ただし、録音的に面白いなと思うのは、そう言う荒さが、「You are there」というレーベルのキャッチフレーズを生々しく思い起こさせるという事実です。それは上手な化粧で欠点を覆い隠した偽物の美女よりはよほど美しいのです。
そして、そのことは、さすがのロンドン交響楽団をもってしても部分的には当てはまるのです。

半世紀も前に、録音という芸術がすでにこのレベルにまで達していたことは心に留めておくべきでしょう。変化は必ずしも進歩ではありませんし、時が経れば物事は前へ進むものだと考えるのは愚か者だけです。