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シューマン:交響曲第3番 変ホ長調 「ライン」 作品97
バーンスタイン指揮 ニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団 1960年10月17日録音をダウンロード
- シューマン:交響曲第3番 変ホ長調 「ライン」 作品97 「第1楽章」
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- シューマン:交響曲第3番 変ホ長調 「ライン」 作品97 「第5楽章」
祝典的な雰囲気にあふれた作品です
番号は3番ですが、作曲されたのは4曲の交響曲の中では一番最後に作曲されました。
1850年にシューマンはデュッセルドルフ市の音楽監督に就任し、ドレスデンからライン河畔にあるデュッセルドルフに居を移します。これを契機に作曲されたのがこの第3番の交響曲であるために一般に「ライン交響曲」と呼ばれますが、これはシューマン自身が与えた標題ではありません。
ただ、この作品に漂う民族的な舞曲を思わせる雰囲気がライン地方の雰囲気を彷彿させるという話もあるので(ユング君はその「ライン地方の雰囲気」と言うのがどういうものなのかは分からないのですが・・・)、それほど的はずれの標題ではないようです。
どこか内へ内へ沈み込んでいくようなシューマンの交響曲の中で、この第3番のシンフォニーだけは華やかさをふりまいてくれます。とりわけ最終楽章に響くファンファーレは祝祭的な雰囲気を盛り上げてくれます。それから、この前に置かれている第4楽章は全体の構成から見てみると、「間奏曲」のようなポジションにあることは明らかですが、実際に聞いてみるとこの楽章が一番充実した音楽のように思えます。最後に弦のトレモロにのって第1主題が壮麗な姿で復帰してくるところなどはゾクゾクしてしまいます。
こういう形式はベートーベンが確立した交響曲のお約束からは外れていることは明らかです。ベートーベンの交響曲の継承者はブラームスと言うことになっていて、その間に位置するシューマンは谷間の花みたいな扱いを受けているのですが、こういう作品を聞いてみると、確かに方向性が違うことが納得されます。
若きバーンスタインの自画像
バーンスタインのシューマンと言えば真っ先に思い浮かぶのは、彼が最晩年に来日して行ったPMFのオケとのリハーサル風景です。別に深い意味もなく、偶々テレビをつけたらやっていたというくらいの興味でした。
そんな程度の興味だったので、最初は見るともなく見ていたのですが、すぐにバーンスタインのリハーサルの凄さに引き込まれていってしました。
取り上げていたのはシューマンの2番です。シューマンの交響曲というのはドイツ古典派およびロマン派の大御所連中の交響曲の中に置いてしまうといささかマイナーです。そんなマイナーな作品の中でも、第2番のシンフォニーは一番マイナーかもしれません。
テレビの映像から流れていたのは第3楽章「Adagio espressivo」でした。
まあ、なんということもないような月並み音楽が演奏されていました。ところが、そのなんということもない月並みな音楽が、バーンスタインの一言一言によって少しずつ形を変えていくのが手に取るように分かるのです。彼がどんな指示をしていたのかは今ではすっかり忘れてしまいましたが、月並みだった音楽が神々しいまでの厳かさに満ちていく様子は奇跡としか思えませんでした。
その瞬間に、はじめてバーンスタインの凄さが少しは理解できたような気がしました。
85年にイスラエル・フィルと来日して演奏したマーラーの9番を聞いてもバーンスタインの何たるが分からなかったのに、こんな貧弱テレビの音声を通して気づくとは何たる愚か者なのでしょうか、私は。
しかし、このテレビを通して聞かせてもらった神々しさは最晩年のウィーンフィルとの全集でも、この若い時代のニューヨークフィルとの全集でも聞くことができません。バーンスタインという人は、基本的にはライブでこそ真価が発揮される人のようです。
この二つの録音を聞いて感じることは、どうして彼の音楽はこんなに荒っぽいんだろうと言う思いです。そして、この荒っぽさは特にシューマンの交響曲では顕著なのです。それは、世評の高いウィーンフィルとの録音でも同様で、どうすればウィーンフィルからこんなに荒っぽい音が出せるんだろうと考え込んだものでした。
事情は若い時代の全集でも同じで、たとえば威勢良く始まる第3番のラインの冒頭などは、思わず「ゲゲゲッ!!」と仰け反ってしまうはずです。弦楽器の響きが全部ごっちゃになって飛び出してくるのですから、そりゃぁ誰だって驚きます。
ただ、聞くところによるとスコアの方は1stヴァイオリンも2ndヴァイオリンも「f」、さらにはヴィオラも「f」と書いてあるらしいので、これが正しいといえば正しいのかもしれません。
確かに、シューマンのオーケストレーションを真っ正直に実行すれば変なことになるのが落ちですから、普通の指揮者ならばバランスを取ります。ラインの冒頭ならば主旋律の1stヴァイオリンは前面に出して、2ndヴァイオリンやヴィオラは控えめに鳴らすというのが「常識」というものです。
しかし、バーンスタインはこの荒々しい響きが好きだったんだろうなと思うのです。書いてあるとおりに真っ正直に、そして力の限りにオケを鳴らしています。
手元にスコアはないので確認はできませんが(さすがに、シューマンの交響曲までは手が回っていない)、おそらく詳細にたどればきわめてナチュラルに鳴らしているんだろうなと思うのです。そう考えれば、晩年のウィーンフィルとの録音の方が変にバランスを取ろうとしつつも響きが混濁しているので、結果としてはあまり好きになれません。
おそらく、バーンスタインにとって、シューマンというのはこういう荒々しい音楽として響いているんだろうなと思うのです。
バーンスタインに関してはその名もズバリ「Leonard Bernstein」というサイトがあって、演奏会の記録からディスコグラフィまで詳細なデータが整理されています。
そのサイトの情報によると、60年9月~10月に集中的に彼はシューマンの交響曲を取り上げています。
- 9月29日&30日:SCHUMANN Symphony No.4
- 10月6日~9日:SCHUMANN Symphony No.2
- 10月13日&14日,16日:SCHUMAN Symphony No.3
- 10月27日~30日:SCHUMANN Symphony No.1
そして、これと並行して録音も行っています。
つまりは、このニューヨークフィルとの全集はわずか一ヶ月ほどの間に完成されているのです。その録音の仕方はほとんど一発録りだったような気がします。バックグラウンドの雑音からもその雰囲気が伺えます。
集中的に彼の若い時代の録音を聞いてみて、どうやら60年頃までの録音に関しては、自分の信じた音楽を躊躇いもなく形にしている雰囲気があります。そして、そう言う「潔さ」みたいなものは62年にはいるとはっきりと後退していきます。そこでは、明らかにいろんな責任を背負い込んで好き勝手には振る舞えないんだということに気づいてきた「悲しみ」みたいなものが、そのすっきりとした造形の背後から感じ取れたりします。
そう言う意味では、この一気呵成に完成されたシューマンの交響曲全集こそは、若きバーンスタインの自画像と言っていいのかもしれません。
もちろん、この荒っぽさがどうしても好きになれない人がいても何の不思議もありません。こんなことを言っている私だって、ファーストチョイスはやはりセル&クリーブランド管ですから・・・。