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バッハ:教会カンタータ 第55番 「われ哀れなる人、われ罪の下僕」 BWV55


リヒター指揮:ミュンヘンバッハ管弦楽団&合唱団 (T)Ernst Haefliger (Fl)Aurele Nicolet Other 1959年2月28日~3月3日録音をダウンロード

  1. バッハ:教会カンタータ 第55番 「われ哀れなる人、われ罪の下僕」 BWV55 第1曲:アリア
  2. バッハ:教会カンタータ 第55番 「われ哀れなる人、われ罪の下僕」 BWV55 第2曲:レチタティーボ
  3. バッハ:教会カンタータ 第55番 「われ哀れなる人、われ罪の下僕」 BWV55 第3曲:アリア
  4. バッハ:教会カンタータ 第55番 「われ哀れなる人、われ罪の下僕」 BWV55 第4曲:レチタティーボ
  5. バッハ:教会カンタータ 第55番 「われ哀れなる人、われ罪の下僕」 BWV55 第5曲:コラール(合唱)

教会カンタータの概観



バッハの教会カンタータを総括的に纏め上げてその詳細を述べる能力はありません。さらに言えば、すでに多くの優れたサイトが存在しますので、詳しくはそちらへ!と済ませたいところです。
バッハの教会カンタータを聞く

しかし、それではあまりにも不親切ですし、さらには自分自身の勉強のためという意味合いも込めて、できる範囲で概観しておきたいと思います。

まずは、「バッハの教会カンタータとはどのような音楽」だったのか?ということです。

ドイツにおいては、今でも日曜日の礼拝でバッハのカンタータを演奏することは日常的な出来事です。それこそ、大小様々な教会において、アマチュアのみならず有名なプロの演奏家もまじえてそれらのカンタータが演奏されます。
若い頃に何度かヨーロッパを訪れたときには、そのおこぼれに預かったことが何度かあります。
ですから、バッハの教会カンタータはドイツ人の中においては血肉化していると言っていいほどです。

しかし、年の暮れが近づいたときにだけ「にわかキリスト教徒」になり、それから1週間もすれば神社で手を合わせるような国民にとってはその音楽はなじみが深いとは言えません。

また、それなりにクラシック音楽を聴きなじんでいる人でも、その音楽の佇まいは古典派以降の音楽とはかなり異なります。
そう言う意味では、古典派の時代になると、バッハの音楽が時代遅れの遺物として忘れ去られた事には理由があるのです。

ですから、「バッハの教会カンタータとはどのような音楽」だったのか?と言う問いに明確な形を得ようとすれば、メンデルスゾーンとともにバッハ・ルネッサンスを実現させたハウプトマンの言葉はきわめて有益です。
ハウプトマンはバッハの教会カンタータを列車にたとえて、次のように説明してくれています。

まずは、先頭に機関車役の導入合唱がきます。
そして、その機関車に引っ張られるように客車であるアリアやレチタティーボが続きます。
最後に、郵便列車とも言うべきコラールが連結されます。

もちろん、200をこえるカンタータの全てがこのような形式を持っているわけではありませんが、しかしこの「概観」は私たちにスタンダードとなるべき一つのフォルムを与えてくれます。
そして、列車にとってそれを引っ張っていく機関車が主役であるのと同様に、カンタータにおいても冒頭合唱こそが最も重要なんだと言うことをはっきりと示してくれます。

つまりは、バッハの教会カンタータとは強力な冒頭合唱によって音楽全体が牽引され、そこに伝統的なイタリア・オペラのように魅力あふれる詩を歌い上げるアリアとレチタティーボが展開し、最後をコラールが締めくくるのです。
音楽を聴くには蘊蓄は不要とは言いますが、それでもこういうフォルムが頭に入っているのといないのとでは、やはり聞きやすさは随分と違ってきます。

次の問いかけは、「バッハの教会カンタータの適切なグルーピングは如何に?」です

さすがに200をこえるカンタータを一つの括りとしてとらえるのは、ちと、しんどい話です。
そこで、たとえば創作の年次や形式などによっていくつかのグループにまとめることができれば、全体像の把握がやりやすくなります。

と言うことで、まずは創作年次によるグルーピングです。
残された記録によると、バッハはその生涯において300をこえるカンタータを創作したと言われていますが、現在まで楽譜が残っているのは200程度です。そして、その残されたカンタータの成立年次を調べてみると、最初期のミュールハウゼンのオルガニスト時代(1707年)から最後のライプツィヒ時代の中頃(1735年)までにわたります。
つまりは、教会カンタータという音楽形式による創作活動はバッハの生涯のほぼ全てを覆っているわけで、このような音楽形式はこれ以外ではオルガン曲しか存在しません。その意味では、教会カンタータを通してバッハという音楽家の全体像を概観できると言うことを意味しています。

しかし、さらに細かく見ていくと、ミュールハウゼン時代からライプツィヒ時代にわたって満遍なく創作活動が続けられたわけではないことに気づきます。

ミュールハウゼンのオルガニスト時代はわずか1年しかなかったのですから、この時代の作品が少ない(おそらく6曲)ことは納得がいきます。

そして、それに続くヴァイマール時代(1708年~1717年)は、楽士長に就任した1714年からは月に1曲の教会カンタータの創作が義務となったので、バッハは4年をかけて1教会暦年を満たすことのできるカンタータのセットを創作しようとしたようです。しかし、この試みは人事上のいざこざとすったもんだの末にバッハがこの宮廷を去ってしまったので、志半ばで放棄されてしまうことになります。
しかし、この時代に生み出されたカンタータはミュールハウゼン時代のカンタータとは全く異なる音楽になっています。それは、ハウプトマンが指摘したような、強力な冒頭合唱によってアリアとレチタティーボが牽引される、バッハ独特の形式がこの時代に出来上がったことを教えてくれます。
この時代に創作された教会カンタータはおそらく22曲程度だろうと思われます。

ところが、これに続くケーテン時代(1717年~1723年)にはいると教会カンタータの創作はぱたりと途絶えます。それは、ケーテンの宮廷がカルヴァン派だったために、教会での礼拝に大規模なカンタータを必要としなかったからです。新年や領主の誕生日には世俗カンタータが演奏されたようなのですが、そのあたりのことも含めて詳細はよく分かっていないようです。
ただし、この時代のバッハは教会の仕事から解放されたが故に、器楽や室内楽による世俗音楽を(無伴奏のチェロやヴァイオリンの組曲、ブランデンブルク協奏曲や管弦楽組曲など)大量に生み出すこととなります。

そして、これに続くライプツィヒ時代(1723年~1750年)こそが、バッハの教会カンタータにとっての黄金時代となります。
ライプツィヒ市のトーマス・カントールという地位についたバッハは、教会における日曜礼拝を全て自作のカンタータで行うことを目指します。この壮大な試みは1723年5月30日にスタートし2年後の1725年5月27日まで続けられます。さらに、同じ年の12月25日のクリスマスからスタートし翌年の11月24日までの1年間もほぼ切れ目なく自作のカンタータで礼拝を行ったようです。
結果として、このバッハの精勤によって、キリスト教会は3年分のカンタータのセットを手に入れることになります。そして、ドイツの教会は、今も日曜日になると、このバッハのカンタータを倦むことなく演奏し続けることができるのです。

さすがに、1727年以降になると、新作のカンタータを創作する必然性が低下するので作曲のペースは次第に低下していくのですが、それでも資料などによると1735年頃まではポツポツと生み出されていたようです。

ですから、ザックリとグルーピングをすれば以下のようになります。


  1. 若き日のミュールハウゼン時代の作品(4・131・106・71・196・150):初期様式

  2. ヴァイマール時代(18・208・12・21・54・61・152・172・182・199・31・80・132・161・162・163・165・185・63・70・155・186・147):バッハの独自な様式が確立

  3. ケーテン時代:教会カンタータの創作から離れる

  4. ライプツィヒ時代(1723年~1725年):(22・23・24・25・40・46・48・64・69・70・75・76・77・89・90・95・105・109・119・136・138・147・167・179・186・194・60・148・158・2・5・7・8・10・20・26・33・37・38・44・59・62・65・66・67・73・78・81・83・86・91・93・94・96・99・101・104・107・113・114・115・116・121・122・130・133・134・135・139・144・153・154・166・178・180・181・184・190・80・173・1・3・6・28・36・41・42・57・68・74・85・87・92・103・108・110・111・123・124・125・126・127・128・151・164・168・175・176・183):教会カンタータ創作の黄金時代(1)

  5. ライプツィヒ時代(1725年~1726年):(79・137・13・16・17・19・27・35・36・39・43・45・47・49・52・55・56・72・88・98・102・169・170・187):教会カンタータ創作の黄金時代(2)

  6. ライプツィヒ時代(1727年~1735年)(129・58・82・193・84・188・197・146・157・120・149・117・216・174・120・145・156・159・171・51・120・192・29・112・140・177・9・100・97):やりきった後にも生み出された作品



参考にした資料は「作曲家別名曲ライブラリー」の巻末データです。(あー、しんどかった^^;)

バッハという音楽家は若くして完成していたとも言われるのですが、この教会カンタータのように、その時々のアイデアや実験的試みを野心的に投入した作品だと、初期のミュールハウゼン時代からライプツィヒの黄金時代に向けて成熟を深めていく様子が様子がうかがえます。特に導入合唱の充実ぶりはライプツィヒの黄金時代の特徴だと言えます。

教会カンタータ 第55番 「われ哀れなる人、われ罪の下僕」 BWV55

私の勝手な時代区分に基づけば、教会カンタータ創作の黄金時代(2)に書かれた作品です。1726年の三位一体の祝日後第22日曜日のために書かれたカンタータ・・・らしいです。

この作品も冒頭合唱が全体を牽引する一般的な形式ではなく、テノール独唱用のためのカンタータです。なお、どうでも良いことですが、テノールがメインとなる独唱用のカンタータでバッハの真作と認定されているのはこの1曲だけです。
と言うことは、エヴァンゲリスト歌手にとっては絶好のレパートリーと言うことで、さらにはそう言う要望に十分応える音楽的な密度の濃さも持っているので、演奏会ではよく取り上げられる作品です。

当日の福音書章句は人間につきまとう罪の深さを告発し、一人ひとりの人間に厳しい反省を促し、さらには神の哀れみを乞うという内容です。


歌詞の日本語訳はこちら。(ただし日本語訳のサイトが見つからなかったので英語訳です)

リヒターの教会カンタータ録音の概観

リヒターが生涯にわたって録音したバッハの教会カンタータは全部で75曲です。録音活動は1959年に始まり、最晩年の1977年まで続いています。
リヒターとってバッハこそは彼のライフワークであり、その中核をなす教会カンタータの録音はそのライフワークの中の中核も言える業績です。しかし、そのように己の人生の全てをかけても、彼が生きた時代では全体の三分の一程度しか網羅できませんでした。

録音の媒体がアナログのLPレコードからデジタルのCDに移行することで、録音という営みの敷居が一気に下がりました。おかげで、デジタル時代に入ってからは何人かの音楽家が教会カンタータの全曲録音を成し遂げていますが、アナログ時代にこれほどまとまった数の録音を成し遂げたリヒターの偉業の価値を減ずるものではありません。

さて、改めて彼の録音の足跡を振り返ってみると、最初は結構意気込んで録音活動をスタートしたことが分かります。なぜなら、録音をスタートした1959年は4曲(8番・45番・51番・55番)を録音しているからです。
しかしながら、60年代にはいると急にテンポが落ちます。


  1. 61年:78番・147番

  2. 64年:60番

  3. 67年:65番・108番・124番

  4. 68年:1番・4番・82番

  5. 69年:24番・26番・56番・69番・158番



60年代の半ば頃までは、ほとんど頓挫したと思わざるを得ない状況です。しかし、70年代を前に再びこの活動が動き始めた気配が伺えます。

そして、70年代にはいると、70~71年は録音が少ないのですが、72年にはいると再びテンポが上がってきます。。
ただし、その活動の内容を見てみると、録音のテンポは上がっているのですが、もしかしたら全曲録音は諦めたのではないかと思える節があります。


  1. 70年:58番

  2. 71年:13番・61番

  3. 72年:28番・63番・64番・81番・111番・121番・132番・171番



何故ならば、この12曲はいずれも待降節(クリスマスを待つ時期)と降誕祭(クリスマス)に関するカンタータだからです。唯一の例外は199番だけです。(ちなみに199番は三位一体節のカンタータです)

そして、73年から74年にかけてはものの見事に全てが復活節(EASTER)に関わるカンタータばかりが録音されています。(182番だけは75年に持ち越されていますが・・・)


  1. 73年:104番

  2. 74年:6番・12番・23番・67番・87番・92番・126番

  3. 75年:182番



つまり、リヒターは教会カンタータの全曲録音ではなくて、教会カンタータの概要を示すことに目標を転換したのではないかという気がするのです。
そして、その疑いは75年の録音活動を眺めると確信に変わります。


  1. 75年:10番・11番・30番・34番・39番・44番・68番・76番・93番・129番・135番・175番



実に精力的に録音活動を行っていますが、ここでもまた全てキリスト昇天祭(ASCENSION DAY)に関するカンタータなのです。

そして、リヒターにとって最後の録音となっていく77年から78年にかけては三位一体節(SUNDAY AFTER TRINITY)のカンタータが集中的に録音されることになります。


  1. 77年:9番・17番・27番・33番・100番・102番・105番・137番・178番・179番・187番

  2. 78年:5番・38番・70番・80番・96番・106番・115番・116番・130番・139番・140番・148番・180番



こういう事が偶然に起こるわけはないのであって、明らかに、リヒターは残された己の時間を使ってバッハの教会カンタータという巨大な存在の見取り図を与えようとしたのだと思います。
ただ惜しむらくは、リヒターは晩年に近づくにつれてはっきりと衰えが見えた指揮者だったということです。
そして、そう言う衰えが見え始めた70年代以降の時期に集中的に録音せざるを得なかったことはいささか不幸なことでした。

しかし、それでも、モダン楽器を使った教会カンタータのスタンダード足るべき完成度は持っています。

いや、これは古楽器を使った昨今の演奏に対する遠慮が過ぎた表現でした。
今もって、古楽器による演奏がどうしても好きになれない私にとっては、今もって唯一の選択肢で有り続けています。

しかし、そう言う文脈における讃辞ならばネット上にも様々な書籍の中にも満ちていますから、今さら何も付け加える必要はないでしょう。
しかし、付け加える必要はないと自制しつつも一言だけ付け加えさせていただけるなら、次ののように賛辞を送りたいと思います。

おそらく数ある教会カンタータの演奏の中でリヒターの録音ほどドラマティックな演奏はないでしょう。
すっきりとした古楽器による演奏を聞き慣れた耳からすれば、そのドラマティックな叫びは大仰に聞こえるかもしれません。そう言う大仰で重たい演奏が時代から疎まれた事が彼の衰えを招いたことは否定できません。

しかし、ここには、バッハを演奏しバッハを聴くことが、まっすぐ生きることの意味を問いかけていた時代の姿が疑いもなく刻み込まれています。
そう言う意味において、この録音を他の録音と比べて云々することは間違っていると思います。必要なのは、ただひたすらにリヒターの声に耳を傾けることです。

これは演奏であると同時に一つの祈りでもあります。