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ブルックナー:交響曲第8番ハ短調
カール・シューリヒト指揮 ウィーンフィル 1963年12月9~12日録音をダウンロード
ブルックナーの最高傑作
おそらくブルックナーの最高傑作であり、交響曲というジャンルにおける一つの頂点をなす作品であることは間違いありません。
もっとも、第9番こそがブルックナーの最高傑作と主張する人も多いですし、少数ですが第5番こそがと言う人もいないわけではありません。しかし、9番の素晴らしさや、5番のフィナーレの圧倒的な迫力は認めつつも、トータルで考えればやはり8番こそがブルックナーを代表するにもっともふさわしい作品ではないでしょうか。
実際、ブルックナー自身もこの8番を自分の作品の中でもっとも美しいものだと述べています。
規模の大きなブルックナー作品の中でもとりわけ規模の大きな作品で、普通に演奏しても80分程度は要する作品です。
また、時間だけでなくオーケストラの楽器編成も巨大化しています。
木管楽器を3本にしたのはこれがはじめてですし、ホルンも8本に増強されています。ハープについても「できれば3台」と指定されています。
つまり、今までになく響きがゴージャスになっています。ともすれば、白黒のモノトーンな響きがブルックナーの特徴だっただけに、この拡張された響きは耳を引きつけます。
また、楽曲構成においても、死の予感が漂う第1楽章(ブルックナーは、第1楽章の最後近くにトランペットとホルンが死の予告を告げる、と語っています)の雰囲気が第2楽所へと引き継がれていきますが、それが第3楽章の宗教的ともいえる美しい音楽によって浄化され、最終楽章での輝かしいフィナーレで結ばれるという、実に分かりやすいものになっています。
もちろん、ブルックナー自身がそのようなプログラムを想定していたのかどうかは分かりませんが、聞き手にとってはそういう筋道は簡単に把握できる構成となっています。
とかく晦渋な作品が多いブルックナーの交響曲の中では4番や7番と並んで聞き易い作品だとはいえます。
2つの決定盤
シューリヒトとクナッパーツブッシュによるブルックナーの8番がともに1963年に録音されているという事実は、いろいろなことを考えさせてくれます。まずは、シューリヒトの方は天下のEMIレーベルによる録音です。
それに対して、クナの方はアメリカの新興レーベルだったウェストミンスターによる録音です。
普通に考えれば、これは逆であっても不思議ではない組み合わせです。
何故ならば、シューリヒトは今では(特にこの国においては)巨匠という位置づけですが、存命中の評価はそれほど高くなかったからです。やはり、ヨーロッパの伝統として歌劇場での活躍が皆無に近いとなかなか評価が上がらなかったようです。
そのために、彼の録音活動の拠点は「コンサート・ホール・ソサエティ(Concert Hall Society)」という会員制の通販レーベルでした。
それに対して、クナは今も昔も偉大な巨匠であり続けた指揮者でした。
そう言えば、あの吉田秀和氏が始めてヨーロッパに行ったときに、何をおいてもまずは聞くべきはクナッパーツブッシュのワーグナーとブルックナーだと言われた・・・言うようなことを何かに書いていました。
つまりは、彼のブルックナー演奏こそは数百年にわたるクラシック音楽演奏の頂点の一つとして認識されていたのです。
ところが、そんな偉大なクナのブルックナーをスタジオで録音できたのがウェストミンスターだったのです。
詳しいことは何も伝わっていませんが、だいたいのことは容易に想像がつきます。
クナの録音嫌いは大変なものでした。
デッカのカルショーが指輪の録音をクナで行いたいと思いながら断念せざるを得なかった経緯は有名な話です。
ですから、どんな伝手があったのかは分かりませんが、1月24日にミュンヘンフィルとの演奏会が終わったあとに、おそらく一発録りに近いような形で録音したのがウェストミンスター盤でした。そして、その一発録りに近い録音は、もしかしたらマイクのセッティングすらも満足に調整する暇がないほどの勢いで演奏が行われたのではないかと想像されます。
その理由として、この録音はウェストミンスターの他の録音と比べるとかなり音質が異なるのです。
このレーベルのオーケストラ録音はデッド気味に音を録って細部の見通しを良くするという傾向はあるのですが(ロジンスキーやシェルヘンの録音を聞くべし!)、それにしてもこの録音はデッドに過ぎます。ネット上では「モノラルかと思った!」と言う声も聞かれるのですが、さもありなんと言う出来です。
ただし、そう言う勢いを大事にした(?)録音だったが故に、クナの美質がものの見事に刻み込まれていることも事実です。
他の指揮者とは異なるクナの美質とは何か言えば、それは「音楽を把握する最小単位」が常人とは異なると言うことに尽きます。
普通の指揮者ならば、ある範囲内でオケをコントロールしていかないと滅茶苦茶になってしまうのに、クナはそれよりは大きな単位で音楽を把握しているので、一見するとオケが好き勝手に演奏しているように見えながら大局的にはクナの掌中に収まっているという雰囲気なのです。
こういう事ができる背景には、決して降り間違えることがないと言われた、クナの超人的な指揮能力が寄与していますし、さらにはオケに対する強い信頼感が背景にあります。
結果として、彼が指揮すると常人とは異なる大きなスケールの音楽が立ち現れます。そして、この「大きなスケール」が最大限に発揮される作曲家がワーグナーとブルックナーだったのです。
ですから、古今東西の数あるブル8の録音の中では、この1963年盤こそは比類なきほどのスケールの大きな音楽が刻み込まれているのです。
そして、その事が、録音の悪さや訳の分からない版を選択していることなどの欠点が「取るに足らない瑕疵」に思えてしまうほどの価値を持っているのです。
ただし、この録音の悪さは帯域が狭くノイズまみれというような性質のものではないので、それなりの再生システムで聞けば十分に音楽を楽しめる性質のものです。逆に見れば、デッド故に細部の見通しは結構良いので、これまた解像度の高いPCオーディオ系のシステムで聞けばかなり面白い体験ができたりします。
それに対して、シューリヒトの方はどうしてこのブルックナーに関してだけはEMIが乗り出してきたのかよく分かりません。
このスタジオ録音は1963年の12月9日から12日までの4日間をかけてじっくり取り組まれています。さらに、スタジオ録音の直前(7日)には同じ組み合わせで演奏もを行っていますから、その演奏会に向けたリハーサルも含めれば十分すぎるほどの時間をかけた録音だったことが分かります。
EMIレーベルは1958年にシューリヒト&パリ音楽院管弦楽団を使ってベートーベンの交響曲を全曲録音しています。それなりに時間をかけて丁寧に録音した雰囲気はあるのですが、その音質は酷いものでした。
どれくらい酷いのかというと『このシューリヒトの録音に関しては、何かの間違いではないかと思えるほどに録音のクオリティが低いのです。それは、「モノラルで録音されたから音が悪い」のではなくて、「完成の域に達していたモノラルで録音したにもかかわらずこの体たらく」であることに「犯罪」のにおいを感じるのです。』と書かざるを得ないほどのひどさだったのです。
つまりは、どう考えてもEMIはシューリヒトのことをそんなに評価していなかったと思わざるを得ないような酷い録音だったのです。
シューリヒトが録音活動の本拠とした「コンサート・ホール・ソサエティ」も録音の悪さでは「定評」のあるレーベルだったので、本当に録音運のない指揮者でした。
ところが、60年代に録音されたウィーンフィルとのブルックナー録音(61年録音:9番・63年録音:8番・65年録音:3番)はそれなりのクオリティで音楽がすくい取られているのです。どういう経緯があったのかは分かりませんが、取りあえずこの事実には感謝あるのみです。
さて、演奏の方ですが、ネット上をを散見してみると「テンポが軽妙でスピード感が溢れているため、各旋律がまるで泉が湧き上がってくる」と絶賛する人もいれば「全体的にせかせかしたテンポ設定には不満」と述べる人もいたりするのですが、宇野氏がクナの63年盤と並ぶ名盤と認定しているので一般的にはブルックナーの本質をえぐり出した名盤と言うことになっています。
しかし、じっくりと聞いてみれば、この演奏はブルックナーが想定した音楽の形とは全く無縁なところで成り立っていることに気づかざるを得ません。
シューリヒトという人は何を演奏しても最後はシューリヒトの色に染めてしまう指揮者でした。
スコアをもっと丹念に研究してそれを現実の音に変換すれば、ブルックナーは雄大な響きと美しさをもっ音楽として立ち現れるはずです。このシューリヒトのように「水墨画のような」とか「枯れた味わい」などと評されるような音楽ではないのです。
ですから、どう考えても、この演奏が「ブルックナーの本質をえぐり出した演奏」だとは到底思えません。
では、全く駄目な演奏なのかと言えば、これもまたそれほど単純な話にはなりません。
何故ならば、巨匠が君臨した50年代から60年代の初め頃までは、どの指揮者もこのシューリヒトとのような、いや、このシューリヒト以上に強い個性というか主張というか、そう言う一筋縄ではないかない灰汁みたいなものをみんな持っていたからです。そして、人々はそう言う巨匠の「灰汁」を愛し、そう言う「灰汁」を楽しむために演奏会に足を運んだのです。
劇場の文化とはそう言うものです。
おそらく、このシューリヒトの演奏をブルックナー本人が聴けば「誰の音楽なんだ??!」と訝しく思うかもしれません。でも、そう言う音楽がクラシック音楽の表通りを堂々と闊歩していた時代の象徴とも言えるのがこの演奏でしょう。
ただし、時に思いっきりオケを鳴らす場面があるものの、それが9番の時のような心臓にグサリと刺さってくるような「怖さ」にまで達していないのは残念です。まあ、8番ですから、それは仕方がないのかもしれませんが、それでもセル&クリーブランド管におけるコーダを聴けば、もう一寸あくどくやれたのではないかという不満は少し残ります。