クラシック音楽へのおさそい~Blue Sky Label~


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ブラームス:交響曲第3番 ヘ長調 作品90

サヴァリッシュ指揮 ウィーン交響楽団 1961年1月録音

  1. ブラームス:交響曲第3番 ヘ長調 作品90「第1楽章」
  2. ブラームス:交響曲第3番 ヘ長調 作品90「第2楽章」
  3. ブラームス:交響曲第3番 ヘ長調 作品90「第3楽章」
  4. ブラームス:交響曲第3番 ヘ長調 作品90「第4楽章」


秋のシンフォニー

長らくブラームスの音楽が苦手だったのですが、その中でもこの第3番のシンフォニーはとりわけ苦手でした。
理由は簡単で、最終楽章になると眠ってしまうのです(^^;

今でこそ曲の最後がピアニシモで消えるように終わるというのは珍しくはないですが、ブラームスの時代にあってはかなり勇気のいることだったのではないでしょうか。某有名指揮者が日本の聴衆のことを「最初と最後だけドカーンとぶちかませばブラボーがとんでくる」と言い放っていましたが、確かに最後で華々しく盛り上がると聞き手にとってはそれなりの満足感が得られることは事実です。

そういうあざとい演奏効果をねらうことが不可能なだけに、演奏する側にとっても難しい作品だといえます。
第1楽章の勇壮な音楽ゆえにか、「ブラームスの英雄交響曲」と言われたりもするのに、また、第3楽章の「男の哀愁」が滲み出すような音楽も素敵なのに、「どうして最終楽章がこうなのよ?」と、いつも疑問に思っていました。

そんな時にふと気がついたのが、これは「秋のシンフォニー」だという思いです。(あー、また文学的解釈が始まったとあきれている人もいるでしょうが、まあおつきあいください)

この作品、実に明るく、そして華々しく開始されます。しかし、その明るさや華々しさが音楽が進むにつれてどんどん暗くなっていきます。明から暗へ、そして内へ内へと音楽は沈潜していきます。
そういう意味で、これは春でもなく夏でもなく、また枯れ果てた冬でもなく、盛りを過ぎて滅びへと向かっていく秋の音楽だと気づかされます。
そして、最終楽章で消えゆくように奏されるのは第一楽章の第1主題です。もちろん夏の盛りの華やかさではなく、静かに回想するように全曲を締めくくります。

そう思うと、最後が華々しいフィナーレで終わったんではすべてがぶち壊しになることは容易に納得ができます。人生の苦さをいっぱいに詰め込んだシンフォニーです。

伝統と対峙した演奏


サヴァリッシュという人は「ドイツの音楽の先生」という雰囲気で、穏やかに経歴を積み重ねてきたように見えるのですが、戦時中はかなり過酷な体験を強いられたようです。
たとえば、所属部隊がレニングラードの派遣されて全滅したにもかかわらず、偶々ピアノの腕を買われて慰問演奏に出かけていて一人取り残されたとか、戦車部隊の通信兵としてイタリア戦線の最前線を転戦させられたか、さらには敗戦後も波残兵として放浪の憂き目にあったとかです。
「芸は身をたすく」ということばがありますが、サヴァリッシュの場合は本当に言葉の意味のままに命を長らえることができたようです。

戦後はアウクスブルク歌劇場の練習指揮者をスタートラインとして、アーヘンの歌劇場、ヴィースバーデンの歌劇場、ケルンの歌劇場の音楽総監督へとキャリアの階段を駆け上っていきます。
そして、ケルンの歌劇場の音楽総監督の職を得た1960年にはウィーン交響楽団の首席指揮者も勤めることになります。

まさに、ヨーロッパの伝統とも言うべき、地方の歌劇場からのたたき上げで力を伸ばしていった指揮者です。

しかし、その演奏を聴くと、特にこのブラームスなどは意識的にヨーロッパの伝統から距離を置いて、スコアだけを頼りにもう一度自分なりのブラームス増を作り上げようという意欲が読み取れます。

もちろん、聞きようによっては、あまりにも直線的に過ぎてスケールが小さいとか、奥行きが浅いなどと言う文句も出てくるのでしょうが、そう言う物言いは注意する必要があります。なぜならば、ここでのサヴァリッシュはそう言う「伝統的なブラームス像」を意識的に避けているからです。ですから、本人が意識的に拒否しているような部分が実現していないことを持ってだめ出しをするのはあまりにも物が見えていないと言わざるを得ません。特に、1番などは意図的に力こぶが入るのを避けていることがよく分かります。4番なども同様で、この曲にまとわりついている「舞い落ちる秋の枯れ葉」みたいなイメージからは距離を置こうといている様子が手に取るように分かります。

では、ここでサヴァリッシュは何を求めているのかと言えば、それはブラームスが書いたスコアを過不足なく、かつバランスよく鳴らし切ることに力を傾注し、結果として、重くない颯爽としたブラームス像が立ち上げることです。
確かに、このサヴァリッシュの的確な指揮によって、各声部がバランス良くなれば言うほどに渋くもならず、逆に風通しの良い颯爽とした姿が浮かび上がってきます。
また、録音の方もそう言う細部の見通しを良くするために、かなりデッドな感じで音をすくい取っています。もっとも、この時代のフィリップスの録音はみんなデッドなのですが、しかし、これに関してはかなり確信犯です。

そう言えば、若い頃の小沢もこんな音楽をやっていました。
まるで、夏の朝露にぬれたような瑞々しい音楽はとても魅力的でした。
どちらも、伝統という名に胡座をかいておけば80点の平均点がとれる道を捨てて、真摯にスコアと向き合った結果がしっかりと刻み込まれています。

もちろん、そのようにして提示されたブラームス像を是とするか否とするかは人それぞれでしょう。
しかし、それでも否とするときに「フルヴェンと比べればスケールが小さいね」などと言っていると、それは聞き手もまた「怠惰の別名である伝統」の上に胡座をかいていると言われても仕方がありません。

聞くところによると、この時期、フィリップスはサヴァリッシュとウィーン交響楽団の組み合わせでモーツァルトやハイドンの交響曲をまとめて録音する計画を持っていたそうです。しかし、その計画の中心にいたプロデューサーがフィリップスを去ってしまったためにその計画は立ち消えになってしまったそうです。
実現していれば、それなりに興味深い録音が残ったと思えるので、実に残念な話ではあります。