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ベートーベン:ベートーベン:交響曲第5番 ハ短調 「運命」 作品67
セル指揮 クリーブランド管弦楽団 1963年10月11&25日録をダウンロード
- ベートーベン:ベートーベン:交響曲第5番 ハ短調 「運命」 作品67「第1楽章」
- ベートーベン:ベートーベン:交響曲第5番 ハ短調 「運命」 作品67「第2楽章」
- ベートーベン:ベートーベン:交響曲第5番 ハ短調 「運命」 作品67「第3&4楽章」
極限まで無駄をそぎ落とした音楽
今更何も言う必要がないほどの有名な作品です。
クラシック音楽に何の興味がない人でも、この作品の冒頭を知らない人はないでしょう。
交響曲と言えば「運命」、クラシック音楽と言えば「運命」です。
この作品は第3番の交響曲「エロイカ」が完成したすぐあとに着手されています。スケッチにまでさかのぼるとエロイカの創作時期とも重なると言われます。(1803年にこの作品のスケッチと思われる物があるそうです。ちなみにエロイカは1803?4年にかけて創作されています。)
しかし、ベートーベンはこの作品の創作を一時的に中断をして第4番の交響曲を作曲しています。これには、とある伯爵未亡人との恋愛が関係していると言われています。
そして幸か不幸か、この恋愛が破局に向かう中でベートーベンはこの運命の創作活動に舞い戻ってきます。
そういう意味では、本格的に創作活動に着手されたのは1807年で、完成はその翌年ですが、全体を見渡してみると完成までにかなりの年月を要した作品だと言えます。そして、ベートーベンは決して筆の早い人ではなかったのですが、これほどまでに時間を要した作品は数えるほどです。
その理由は、この作品の特徴となっている緊密きわまる構成とその無駄のなさにあります。
エロイカと比べてみるとその違いは歴然としています。もっとも、その整理しきれない部分が渾然として存在しているところにエロイカの魅力があるのですが、運命の魅力は極限にまで整理され尽くしたところにあると言えます。
それだけに、創作には多大な苦労と時間を要したのでしょう。
それ以後の時代を眺めてみても、これほどまでに無駄の少ない作品は新ウィーン楽派と言われたベルクやウェーベルンが登場するまではちょっと思い当たりません。(多少方向性は異なるでしょうが、・・・だいぶ違うかな?)
それから、それまでの交響曲と比べると楽器が増やされている点も重要です。
その増やされた楽器は第4楽章で一気に登場して、音色においても音量においても今までにない幅の広がりをもたらして、絶大な効果をあげています。
これもまたこの作品が広く愛される一因ともなっています。
60年代には評価が高かったセル
セルというのは冷遇されていたと思っていました。しかし、最近になって古本屋さんでレコード芸術創刊30周年記念「推薦盤全記録」という上下2巻の小冊子を入手して、それは間違いであったことに気づきました。
この小冊子は、レコ芸創刊の1952年から1980年にかけの推薦盤が網羅されています。
こういうサイトをやっているので、音源の初出年を確認する一助として入手したのですが、それぞれの時代にどのような録音が支持されていたのかが一目瞭然になるので、眺めているだけでもいろいろなことに気づかされて、なかなかに面白い小冊子です。
そして、気がついたのです。
セルは決して冷遇などはされていなくて、それどころか「評論家筋」では非常に高く評価されていたのです。
たとえば、1964年に推薦盤に選ばれたセルのLPは以下の通りです。
- ハイドン:交響曲92番「オクスフォード」・モーツァルト:交響曲第33番
- ベートーベン:交響曲第4番・「レオノーレ」序曲第3番
- ベートーベン:交響曲第5番「運命」・モーツァルト:交響曲第41番「ジュピター」
- シューベルト:交響曲第7(8)番「未完成」・ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」
- ブラームス:交響曲第1番
- シューマン:交響曲全集
- R.シュトラウス:家庭交響曲・交響詩「ドン・ファン」
- モーツァルト:ピアノ協奏曲第19番・20番 (P)ゼルキン
- プロコフィエフ:交響曲第5番・ストラヴィンスキー:組曲「火の鳥」
おそらく、セルという名前が付いてリリースされたLPは片っ端から「推薦盤」に選んでいる感じです。
この時期意欲的に録音活動を行い、飛ぶ鳥を落とす勢いだったバーンスタインよりも「推薦マーク」が多いのです。
では、その推薦のコメントいくつか拾い出してみるとこんな感じです。
「セルの演奏を聴いてスコアを再現することだってできる。そう言う厳密さが演奏を支配している。だが、それだけではない。・・・「運命」の全曲を通じて、壮大な人間のドラマだって感じ取れるのである」
「すみずみまで洗い出して磨き抜いた演奏である。情緒の厚いベールで心暖かくつつんでくれる演奏ではないが、第1番(ブラームス)のありのままの姿がいかに威厳のある風格を持っているかを・・・我々に告げている」
「いささかの誇張もなくシューマンの音楽を再構築することに成功している。・・・そして、いかにもシューマンその人の情感を感じさせる音色の美しさ!セルにとって理想の楽器、クリーブランド管弦楽団にして初めて可能となった新しい表現の領域といえる。」
つまりは、セルの完璧さへの献身と執念のその向こうに、豊かな音楽が息づいていることをどの推薦コメントでも指摘しているのです。
ところが、私が初めてセルと出会った80年代には、セルの評価はそれほど高くはなく、k機械のように正確だが冷たい演奏をする奴というレッテルが貼られていました。
何処でこういう変化が起こったのかは分かりませんが、60年代にはそう言う正確さの背景に豊かな音楽が息づいていることを聞き取れていたのが、そこから20年たつと聞き取れなくなっていたとは実に不思議な話です。そして、90年代も終わり頃になってネット社会が到来すると、数多くのセルファンたちが、聞く耳があれば容易に聞き取れる豊かな音楽の素晴らしさを語ることで再評価が進んだのです。(これは、このように言い切ってもそれほど間違ってはいないと思います。)
そう考えると、最初の頃は随分と「評論家先生」の悪口を書いたのですが、こうやって歴史を振り返ってみると、それほど捨てた物でもないようです。
もっとも、「○○指揮○○管弦楽団の演奏はかつては王者だったが、△△指揮△△フィルの演奏や□□指揮□□交響楽団の演奏が登場することでその地位は失った。それでも今でも第3位の演奏である」みたいな音楽評論家なのかスポーツ評論家なのかよく分からないようなことを平気でいう先生は願い下げですが・・・。
たとえば4番の録音は、セルのベートーベン演奏の中でもその精緻さがひときわ光る演奏ですね。弦楽器の美しさ、管楽器のふくよかさが一点の混じりけもなく積み重ねって音楽を形作っていく様子が手に取るように分からせてくれます。
しかし、セルの演奏はそのような正確さへの執念が自己目的化することなく、それを手段として活用しているところがさらに凄いのです。
吉田秀和はそれを「白磁」にたとえていましたが、そう言う極上の音が、セルの途轍もなく強い求心力によって音楽がぐいぐい進んでいくのです。オーケストラによる音楽を聴く醍醐味はここに極まれりです。
こんな言い方をすると失礼なのは承知なのですが、こうしてサヴァリッシュとセルの録音を続けて聞いてみると、セとサヴァリッシュの違いに思いが至るのは仕方のないことです。それは、もう少し具体的に言えば、指揮者の要求に対してオケが何処まで踏み込めるかの違いです。
セル&クリーブランド管と比べてみれば、サヴァリッシュの指示に対して、ウィーン交響楽団はあまりにも安全運転です。そして、その事は余裕をかまして成り立つほどベートーベンの音楽は甘くはないことを教えてくれます。