クラシック音楽へのおさそい~Blue Sky Label~



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ヘンデル:組曲「水上の音楽」

レオポルド・ストコフスキー指揮 RCA Victor Symphony Orchestra 1961年4月17日録音

  1. ヘンデル:組曲「水上の音楽」 [Minuet]
  2. ヘンデル:組曲「水上の音楽」 [Andante]
  3. ヘンデル:組曲「水上の音楽」 [Allegro]
  4. ヘンデル:組曲「水上の音楽」 [Adagio e staccato]
  5. ヘンデル:組曲「水上の音楽」 [Bourree]
  6. ヘンデル:組曲「水上の音楽」 [Hornpipe]
  7. ヘンデル:組曲「水上の音楽」 [Air]
  8. ヘンデル:組曲「水上の音楽」 [Alla Hornpipe]



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機会音楽

「水上の音楽」は名前の通り、イギリス国王の船遊びのために、そして「王宮の花火の音楽」は祝典の花火大会のために作曲された音楽です。
クラシック音楽の世界では、こういう音楽は「機会音楽」と呼ばれます。機会音楽とは、演奏会のために作曲されるのではなく、何かの行事のために作曲される音楽のことをいいます。それは純粋に音楽を楽しむ目的のために作られるのではなく、それが作られるきっかけとなった行事を華やかに彩ることが目的となります。ですから、一般的には演奏会のための音楽と比べると一段低く見られる傾向があります。

しかしながら、例え機会音楽であっても、その創作のきっかけが何であれ、出来上がった作品が素晴らしい音楽になることはあります。その一番の好例は、結婚式のパーティー用に作曲されたハフナー交響曲でしょうか。
そして、このヘンデルの2つの音楽も、典型的な機会音楽でありながら、今やヘンデルの管弦楽作品を代表する音楽としての地位を占めています。

機会音楽というのは、顧客のニーズにあわせて作られるわけですから、独りよがりな音楽になることはありません。世間一般では、作曲家の内なる衝動から生み出された音楽の方が高く見られる傾向があるのですが、大部分の凡庸な作曲にあっては、そのような内的衝動に基づいた音楽というのは聞くに堪えない代物であることが少なくありません。それに対して、モーツァルトやヘンデルのようなすぐ入れた才能の手にかかると、顧客のニーズに合わせながら、音楽はそのニーズを超えた高みへと駆け上がっていきます。
そして、こんな事を書いていてふと気づいたのですが、例えばバッハの教会カンタータなどは究極の機会音楽だったのかもしれないと気づきました。バッハが、あのようなカンタータを書き続けたのは、決して彼の内的な宗教的衝動にもとづくのではなく、それはあくまでも教会からの要望にもとづくものであり、その要望に応えるのが彼の職務であったからです。そう考えれば、バッハの時代から、おそらくはベートーベンの時代までは音楽は全て基本的に機会音楽だったのかもしれません。


徹頭徹尾「演奏」を聞かせる演奏です。

私たちがコンサートに出かけて、もしくはレコード(CD)を買ってきて聞こうとしているのは「作品」なのか「演奏」なのかと言う問題は、突っ込んで考えてみる価値があるようです。

「あなたのコンサートからお帰りになるお客様に『今日はいいベートーベンだったね。』っていわれるような演奏家になりなさい」

丸山真男が天満敦子に語ったこの言葉は、「作品」を演奏し、「作品」を聞くことが本筋なんだと言っています。
ロジンスキーの「新世界より」(1954年盤)をアップしたときにいただいたコメントも、言い方は違え、それと全く同じ事を語っておられました。少し長くなりますが、全文引用させていただきます。

2014-11-01:HIRO
「私は、チェリビダッケの良い聴衆ではないので、私の知っている彼の「新世界から」の演奏は、YouTubeで見ることのできる、ミュンヘン・フィルとのライブだけなのですが、その第2楽章で彼は大失敗をしています。
この楽章の鳥が鳴き、太陽が昇るシーンは、鳥の部分の音符にスタッカートやスラーなどのアーティキュレーションが付いていて、そのままインテンポで演奏すれば、ちゃんと鳥に聞こえるように、ドボルザークは書いています。しかし、その音型を、チェリビダッケはクライマックスがやってくる前の、アッチェレラアンドのための歯車的音型としか思わず、「いつもの癖?」でそこでテンポを落としてしまいました。そのため、鳥が全く鳥らしく聞こえなくなってしまいました。

これは、この曲の内容をチェリビダッケが知らなかったことの証で、彼は、私のいう「自分なりの楽譜を読む法則」通りに、いつもの様にしてしまったのでしょう。
おそらく、その後に出てくる、メロディーが途切れる場面や、弦が4ー2ーソロになる場面についても、どうしてそうなるのか分からなかったでしょうから、「ドボちゃん、洒落たことをしてるな」ぐらいにしか思わなかったのではないでしょうか。

これは独善的といわれる指揮者によくある特徴で、トスカニーニなどにも見られ、彼も同じ失敗をしています。
トスカニーニも同じ場所で、今度は、逆に早すぎて、まるで鳥には聞こえません。
彼も、この曲の内容を知らなかったのでしょう。
勿論、楽譜を自分勝手な解釈で演奏しても、上手く行った曲はたくさんあるのでしょう。(そんなこと、ほとんどの聴衆は分からないのですから…)
あるいは、トスカニーニのイタリアものの様に、当たり前に知っているものもあるでしょう。
しかし、いくら「楽譜に忠実」などと言っても、内容を知らないのであれば、ただの「棒読み」です。
それを、同じく内容を知らない評論家、聴衆が「オケが歌ってる」とか、「テンポが良い」とか、「アンサンブルが揃ってる」とか音響面だけで感心して、音楽を鑑賞したつもりでいます。

無能な指揮者は何もしないので、かえってバレないのですが、小賢しい指揮者が余計なことをして、馬脚を露してしまいます。
こういう失態は、この曲だけのことでしょうか。
いえいえ、こういう「大家」になってしまいますと、何でもかでも「解釈」という「自分の法則」で通してしまいます。それでは、いくら「哲学」を語っても、それは「自己流」という意味でしかありません。
あのロジンスキーでさえも、「裸の王様」状態のトスカニーニには忠告できなかったのでしょう。」

クラシックの音楽の世界というのが、「作品」を演奏し、「作品」を聞くことが本筋なんだとすれば100%正しい指摘だと思います。
しかし、ここで「卓袱台返し」のように、「いや、クラシック音楽の世界といえども演奏を聞かせ、演奏を聞くことに楽しみを見いだして何が悪い」と開き直ってしまえば、事情は180度変わってしまいます。

そして、さらに考えを進めてみれば、この「作品」を演奏し、「作品」を聞くことに価値を見いだすスタンスは、一般的に音楽を聴くスタンスとしてはかなり特異な立ち位置であることに気づきます。
例えば、ジャズの世界で、「今日の○○の演奏は作品の本質をついた素晴らしい演奏だったね」とはあまり言わないのではないでしょうか。

これがポピュラー音楽だったら絶対にあり得ません。
例えば、「今日の中島みゆきの『糸』は作品の本質をついた素晴らしい歌唱だった」という人がいればかなり気持ちが悪いです。「今日のみゆき姐御は良かったね」というのが普通です。

ところが、クラシック音楽の世界では「今日はいいベートーベンだったね」こそが正解で、「今日の天満敦子は良かったね」は表現の仕方、そして受容の仕方としては一段落ちると言うのです。そして、そう言う物言いは、丸山真男に限った特異なスタンスではなくて、それがスタンダードとなっているのです。
もっと、分かりやすく言えば、「原典尊重」「作曲家の意図に忠実」という言葉を使った時点で、演奏する側も聞き手の側も、丸山のスタンスに同意していることになるのです。

しかし、そんな立場には汲みしない演奏家もいるのです。
彼らは、端から「精神性」などというものには背を向けていますし、さらに言えば、クラシック音楽といえどもポピュラー音楽と同じようなスタンスで演奏しても十分に価値があることを確信しているのです。

また、ヘンデルやバッハの時代の作品に対して「原典尊重」することにどれほどの意味があるかと言うことも考えてみる必要があります。彼らの音楽は「後世の評価」などというものは一切勘定に入れていません。
彼らの音楽は、言葉は悪いですが基本的に「機会音楽」です。様々な機会に音楽が求められ、その機会に相応しい音楽を次々と供給し、そうして供給された音楽は次々に消費されていくだけなのです。

そんな音楽のスコアというものはその時々の覚え書き程度の意味しか持っていないことが多くて、音楽を芸術ととらえ後世の評価を視野に入れて作曲をするようになった19世紀期以降同じ目線で評価するのは基本的に間違っています。

おかしな言い方になるのですが、ストコフスキーの音楽は徹頭徹尾「演奏」を聞かせる演奏です。
響きは基本的に美しく磨かれ、意外なほどに透明感の高い音楽に仕上がっています。そして、ここぞという場面ではスコアの指示よりは演奏効果の方を常に優先させてゴージャスに盛りあげます。
「王宮の花火」では最後の場面で華々しく花火が炸裂します。
オーディオ装置の具合が悪くなってノイズがまざったのかと思って一瞬焦りましたが、それもまた「作品」を聞かせることに重きをおいた行儀の良い音楽を聴き続けてきたせいでしょう。

この問題、まだまだ考えてみる価値があります。