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ベートーベン:ピアノソナタ第8番 ハ短調 「悲愴」 作品13


(P)アニー・フィッシャー 1958年10月12~14日録音をダウンロード

  1. ベートーベン:ピアノソナタ第8番 ハ短調 「悲愴」 作品13 「第1楽章」
  2. ベートーベン:ピアノソナタ第8番 ハ短調 「悲愴」 作品13 「第2楽章」
  3. ベートーベン:ピアノソナタ第8番 ハ短調 「悲愴」 作品13 「第3楽章」

これを若書きの作品といえばベートーベンに失礼かもしれません。



凡百の作曲家のピアノ作品と比べれば堂々たる音楽です。
 しかし、中期・後期の傑作を知っているものには、やはりこのソナタは若書きの範疇に入らざるを得ません。

 冒頭の一度聞いたら絶対に忘れることのない動機がこの楽章全体の基礎になっていることは明らかです。この動機をもとにした序奏部が10小節にわたって展開され、その後早いパッセージノ経過句をはさんで核心のソナタ部へ突入していきます。
 悲愴、かつ幻想的な序奏部からソナタの核心へのこの一気の突入はきわめて印象的です。
 その後、この動機は展開部やコーダの部分で繰り返しあらわれますが、それが結果としてある種の悲壮感が楽章全体をおおうこととなります。
 それがベートーベン自身がこの作品に「悲愴」という表題をつけたゆえんです。


 しかし、ここに聞ける悲壮感は後期の作品に聞ける、心の奥底を揺さぶるような性質のものではありません。
 長い人生を生きたものが苦さと諦観の彼方に吐き出す悲しみではなく、それはあくまでも若者が持つところの悲壮感です。

 ならば、それは後期の一連の作品と比べれば劣るのかと言われれば、答えはイエスであると同時にノーです。
 なぜなら、後期のベートーベンの作品は後期のベートーベンにしか書けなかったように、この作品もまた若きベートーベンにしか書けない作品です。
 年を重ねた人間にはかけない音楽です。

 そして、重い主題を背負った音楽ばかり聞くというのはしんどいことです。時には、悲壮感のなかに甘さをたっぷりと含みながらも、若者らしい瑞々しさを失わない音楽もいいものです。
 それに、ユング君には無理ですが、この作品はベートーベンのピアノソナタのなかでは演奏が最も優しい部類に属します。

 ある程度ピアノが弾ける人なら、過ぎ去りし青春の日々に思いを馳せながら演奏してみるのも楽しいのではないでしょうか。
 (ユング君もこれぐらいの曲が弾けるようになればいいなといつも思っているのですが、道は遠いです。)

第1楽章
 クラーヴェ(4分の4拍子)−アレグロ・ディ・モルト・エ・コン・ブリオ ハ短調 2分の2拍子 ソナタ形式

第2楽章
 アダージョ・カンタービレ 変イ長調 4分の2拍子 3部形式

ベートーベンが書いたもっとも優れた音楽の一つ、と言って過言はないでしょう。今までの緩徐楽章も申し分なく美しい音楽でしたが、ここではその美しさが一種の祈りにもにた形へと昇華されています。

第3楽章
 アレグロ ハ短調 2分の2拍子 ロンド形式

録音嫌い

どういう訳か、吉田秀和氏の「世界のピアニスト」の中にアニー・フィッシャーの名前が見あたりません。彼を手引きとしてクラシック音楽を聴き始めた人なので、その事は私の視野からアニー・フィッシャーが長く消えていたことを意味します。
確かに女性のピアニストはあまり取り上げられていない傾向はあるのですが、それでもエリー・ナイやマイラ・ヘスあたりまで取り上げているのですから、不思議と言えば不思議です。もちろん、評価しない人を取り上げてくさすよりは、最初から取り上げないことで己の評価を暗示するというのが物書きとしての流儀かもしれないのですが、それにしてはエリー・ナイのところでは随分と厳しいことを書いています。

そう思ってアニー・フィッシャーというピアニストの経歴を振り返ってみると、なるほどと思う事がいくつかりました。今回は、そのあたりのことを幾つかふれておこうかと思います。

まずは、かなりの録音嫌いだったと言うことです
。1914年生まれなので、その全盛期とも言うべき50~60年代に為した録音はCDに換算して10枚にも満たないようなのです。カラヤンだったら1年の仕事にも満たない量です。
さらに、録音が嫌いだった割には、当時としてもかなり長い時間をかけて録音しています。
ベートーベンの月光ソナタなどは1958年の11月18日~20日にかけて録音し、さらに翌年の2月5~6日にも録音しています。おそらく、最初のセッション録音では満足できない部分があったのでリリースすることを渋ったのでしょう。

そう言えば、彼女は晩年にフンガロトン・レーベルでベートーベンのソナタを全曲録音しています。
コンサートでフィッシャーのベートーヴェンを聴いたフンガロトンのプロデューサーが感激して、全集録音を打診したことで実現した録音だそうです。ただし、録音嫌いの彼女に「Yes」と言わせるために提示した条件が破格でした。

まずは、録音時間を費やして好きなだけテイクを重ねてもいいこと。
さらには、(これがすごいのですが)、それだけテイクを重ねても結果として気に入らなければ発売しないという条件です。

幸いにして、録音そのものは1年で完了したそうです。しかし、編集に対するフィッシャーのこだわりが凄くて、数年をかけてようやく一枚が許可されるというペースでした。結果として、1995年に彼女が歿するまでにすべてをリリースすることが出来ず、彼女が亡くなった後に残された録音がリリースされたそうです。

このエピソードを読んで、何故に彼女が録音を嫌っていたかが少しは分かったような気がしました。
おそらく、彼女は録音を嫌っていたのではなくて、録音を恐れていたのだろうと思います。

1回限りのコンサートならば、演奏上の些細な瑕疵はそれほど大きな意味を持たず、それよりは音楽そのものが持つ本質的なエネルギーが聞き手を魅了します。そして、彼女の持ち味はそう言うエネルギーに満ちた音楽を展開するところで発揮されるものであって、精密機械のように精緻な響きでスコア音に変換していくタイプのピアニストではありません。

しかし、録音という形で自分の演奏が固定されて広く世の中に流通するとなると、本来ならば無視してもかまわないような部分まで目を行き届かせないと許せなかったようなのです。言うまでもないことですが、ここで「本来ならば無視してもかまわないような部分」というのは、些細なミスタッチのようなレベルのことをいっているのではありません。スタジオでの録音であるならば、そう言う部分は見落としてはいけません。
そうではなくて、おそらくはスコアの細かい部分における解釈の問題で執拗に切り貼りを繰り返したのではないかと思われるのです。それは、例えばアクセントとスタッカートの違いみたいな、自筆譜が失われている状況では確定しがたいような部分にまでも(これはただの一例ですが)及んでいるようなのです。

しかし、それが結果として、コンサートでは遺憾なく発揮される彼女の魅力が、録音においてはスポイルされることにつながっていると言わざるを得ないのです。
彼女のコンサートを聴いたことがある人は絶賛を惜しまないのですから、ピアニストとしての彼女の実力と魅力には疑いはないのでしょう。そう言う魅力が晩年になっても保持されていたことは、フンガロトンのプロデューサーの申し出からも明らかです。
それだけに、レーベルのプロデューサーのいらぬお節介による切り貼りで音楽の魅力が殺がれたのではなく、録音という行為に恐れを持った本人にの申し出で自分の音楽の魅力を殺いでしまったことは、返す返すも残念なことだと言わざるを得ません。

つまりは何が言いたいのかというと、どうやら録音を聞いているだけでは、アニー・フィッシャーというピアニストの魅力は十分にはつかめない、と言うことです。

そして、次に気づいたのが、彼女が初来日したのは1980年にコンクールの審査員としてだったと言う事実です。その後、これをきっかけに日本が好きになったようで何度から日にしてコンサートも開いていますが、確かその最初の来日コンサートはホロヴィッツの初来日と重なってしまったようなのです。
つくづく日本との相性は悪かったようです。

セルなんかが典型ですが、一度の来日公演で評価が180度ひっくり返ってしまう事はよくあることです。録音だけでは演奏家の真価はよく分からないと言われるのですが、彼女のように録音だけでは伝わりにくいタイプの人はなおさらです。
ちなみに、彼女の最後の来日公演は亡くなる前年だったそうですが、東京での会場は東京文化会館の小ホールだったそうです。
つくづく日本との相性は悪かったようです。

結局、そんなこんなで、日本においては「知る人のみが知る」ピアニストになってしまったのでしょう。もちろん、そんな事が原因で吉田秀和氏が「世界のピアニスト」でアニー・フィッシャーに言及しなかったわけではないのでしょうが、それでも、何となく日本における彼女の認知のされ方も反映しているような気がします。

と言うことで、是非とも「知る人のみが知る」アニー・フィッシャーの魅力を「この録音で味わってください!」と言えないのが辛いところです。
個人的な感想ですが、クレンペラーと共演したシューマンやリストはあまり口出しが出来なかったせいか、逆に彼女の良さがよくでているような気がします。モーツァルトのコンチェルトでは、20番や23番の第2楽章のような「悲しみ」を語る場面では美しさを感じる場面もあるのですが、それ以外は今ひとつピントこないというのが正直なところです。それと比べると、ベートーベンのソナタの方がまだしも彼女の特徴である情熱的な雰囲気が良くでているように思います。