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ホルスト:大管弦楽のための組曲「惑星」 作品32
マルコム・サージェント指揮 BBC交響楽団1957年8月12日 & 9月2~3日録音をダウンロード
- ホルスト:大管弦楽のための組曲「惑星」 作品32「第1曲:火星 - 戦争の神」
- ホルスト:大管弦楽のための組曲「惑星」 作品32「第2曲:金星 - 平和の神」
- ホルスト:大管弦楽のための組曲「惑星」 作品32「第3曲:水星 - 翼のある使いの神」
- ホルスト:大管弦楽のための組曲「惑星」 作品32「第4曲:木星 - 快楽の神」
- ホルスト:大管弦楽のための組曲「惑星」 作品32「第5曲:土星 - 老年の神」
- ホルスト:大管弦楽のための組曲「惑星」 作品32「第6曲:天王星 - 魔術の神」
- ホルスト:大管弦楽のための組曲「惑星」 作品32「第7曲:海王星 - 神秘の神」
占星術からイメージされた音楽
ホルストは随分と占星術に凝っていたようで、かなり専門的に勉強もしていたようです。その様な占星術への傾倒の中で生み出されたのがこの組曲「惑星」でした。
私はこういう方面はあまり詳しくないのでよく分からないのですが、占星術ではそれぞれの惑星に固有の性格というかイメージを与えているようです。
その様なイメージを音によって再現して見せたのがこの「惑星」だというわけです。
しかし、よく聞いてみると、ホルストは占星術から多大なインスピレーションは得ていますが、必ずしもそれにとらわれてはいないようです。彼は占星術からのイメージをそれぞれの楽章の標題としていますが、音楽がつむぎだすイメージはより雄大です。
なお、最近になって“冥王星"を付け加えて演奏される機会が増えてきているそうです。ケント・ナガノが作曲依頼をして、ホルスト協会の会長であるコリン・マシューズが新たに作曲したもので、英国ではこのスタイルで演奏することが慣習になりつつあるとか・・・。
正直、この話を聞いてケント・ナガノに対する私の評価急降下しました。それこそ、絵に描いたような「余計なお世話」だと思うのですが、いかがでしょうか。
<2006年8月26日追記>
冥王星が惑星の地位から転落して、太陽系の惑星は8個という事になりました。さて、これでケント・ナガノ委嘱によるマシューズ先生の「冥王星」の運命はどうなるのでしょうか?
そんな作品はこの世の中に一度も存在したことなどなかったかのように無視を決め込んで、「僕たち、ずっとホルスト先生の指示通り海王星で演奏を終わってたもんね!!」という態度をとるんでしょうか?
それとも、こういう時こそ根性を見せて、
ホルスト作曲、ケント・ナガノ委嘱によるマシューズ補作:「惑星と矮惑星(ただし、2006年8月の時点において40個以上は発見されていると思われる矮惑星の中ではもっともよく知られていて、一般的には冥王星と名付けられている矮惑星・・・ただし「矮惑星」と言う呼称は2006年8月に行われた惑星の定義確定にともなう中で用いられた暫定的な呼称であるために、今後その呼び方については変更があるかもしれないことに留意されたし」・・・うーーん、長い!!・・・・なんて言う作品名で演奏を続けるのでしょうか?(^^;
だから、いらぬお節介だといったのです。
ちなみに、各曲につけられた標題は以下の通りです。
第1曲:火星 - 戦争の神
Mars, the Bringer of War. Allegro
第2曲:金星 - 平和の神
Venus, the Bringer of Peace. Adagio - Andante - Animato - Tempo I
第3曲:水星 - 翼のある使いの神
Mercury, the Winged Messenger. Vivace
第4曲:木星 - 快楽の神
Jupiter, the Bringer of Jollity. Allegro giocoso - Andante maestoso - Tempo I - Lento maestoso - Presto
第5曲:土星 - 老年の神
Saturn, the Bringer of Old Age. Adagio - Andante
第6曲:天王星 - 魔術の神
Uranus, Magician. Allegro - Lento - Allegro - Largo
第7曲:海王星 - 神秘の神
Neptune, the Mystic. Andante - Allegretto
いわゆる「手の内」に入った音楽
トルトゥリエのエルガー:チェロ協奏曲を聴き直してみて、指揮者がサージェントであることに気づき、懐かしい思いがしました。高校の同じクラスにクラシック音楽に入れ込んでいる変な奴がいて、カセットデッキを持ち込んでは「これを聴け!」と押しつけるのでみんなから恐れられていたのですが(^^;、何故か私とは波長があったので、その「これを聴け!」という音楽を結構面白く聴いていました。
その友人が「これを聴け!」と押しつけていたのがシベリウスでした。そして、彼はいかにシベリウスという作曲家が偉大な存在であるかを熱っぽく語っていました。
ですから、なけなしの小遣いをはたいてカラヤンの悲愴を買った次に選んだのがシベリウスだったわけです。
ただし、彼が「聴け!」というシベリウスの音楽はいまいちよく分かんないので、できれば一番安いのにしようと言うことで選んだのがニューセラフィムシリーズのサージェント盤だったわけです。
サージェントという人は存命中は結構ブイブイ言わせた人で人気もあり、ビートルズの録音現場にも「ハロー!!」等と訪ねていったりもして話題にもなったりしました。しかし、67年になくなってしまうと急激に認知度は下がってしまい、私がクラシック音楽などというものを聞き始めた70年代中頃には「セラフィムシリーズ」という廉価版の看板指揮者になっていました。そして、世がLPレコードからCDへと移行しはじめた80年代にはいると、本当に過去の人になってしまいました。
さて、どうしてそんな事になったのかと不思議にも思ったので、EMIを中心として残された彼の録音をある程度まとめて聞き直してみました。そして、その結果としてある事実に気づかされました。
サージェントという人はイギリスの作曲家の良き理解者であり支持者でもありました。エルガー、ホルスト、ブリテン等というそれなりに認知度のある作曲家だけでなく、ウォルトンやヴォーン=ウィリアムズ、さらにはアフリカ系イギリス人のサミュエル・コールリッジ=テイラー等の作品も熱心に取り上げています。
また、合唱の指揮者としてスタートしたこともあって、合唱を伴った作品の扱いは得意としていて、メンデルスゾーンの「エリヤ」、ヘンデルの「メサイア」という定番だけでなく、エルガーも「ゲロンティアスの夢」やウォルトンの「ベルシャザールの饗宴」などと言うレアな作品もよく取り上げています。
そして、そう言うレアではあるけれども、彼にとっては「手の内」に入った音楽では、非常にアグレッシブな演奏を聴かせてくれます。言葉をかえれば、自信満々に「自分の音楽」を展開してくれていて聞きごたえは十分にあります。
ところが、それが一転してベートーベンやシューベルトみたいな、いわゆるドイツ・オーストリア系の正統派の音楽になると、急に行儀良くなるのです。例えば、1960年に録音したベートーベンの3番「エロイカ」やシューベルトの「未完成」になると、いわゆる楷書風のさらっとした音楽になってしまっています。それを趣味の良い外連味のない音楽と評することも出来るのでしょうが、こういう二つの顔を見せつけられると「内弁慶」という言葉が頭の上を過ぎらざるを得ません。
そして、クラシック音楽の世界というのは、辺境部分でどんなに素晴らしい演奏を聴かせても、ドイツ・オーストリア系の正統派の部分でそれなりの実績を残さないと、早晩その存在は忘れ去られるという「悲しい現実」に行き当たることになるのです。
もちろん、その事の是非、または価値判断は保留しますが、この事実に思い当たったときに思い浮かんだ顔が「OZAWA」でした。
もちろん、彼に対する評価が今後どうなっていき、どのような形で定着していくのかは私如きが云々するよう話ではありません。しかし、彼のディスコグラフィを眺めてみれば、ベートーベンの欠落はあまりに大きいと言わざるを得ません。
と言うことで、話がいささか横にそれましたが、今回紹介した一連のホルストの作品と、イギリス人が大好きだったシベリウスにの音楽に関しては、完全に「手の内」に入った音楽です。少なくとも、こういう録音だけは、後世にも引き継いでいきたいものだとは思います。
特にホルストの「惑星」は数ある同曲異演盤の中でも十分すぎるほどの存在価値がある演奏です。もちろん、昨今の録音と較べればオケのアンサンブルの精度にはもう少し注文をつけたくなる部分ありますが、普通に人間が演奏してるならば、この程度の精度もあれが十分です。逆に精度は上がっているものの、蒸留水のような無味無臭の響きを聞かれるよりははるかに好ましく思えます。
その事はシベリウスの交響曲に言えます。歌うべきところはしっかり歌っている、そして畳み込むべきところはしっかりとオケを追い込んでいる人間味溢れる演奏は聴いていて実に楽しいのです。