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シベリウス:交響曲第5番 変ホ長調 op.82


マルコム・サージェント指揮 BBC交響楽団 1958年8月25~26日録音をダウンロード

  1. シベリウス:交響曲第5番 変ホ長調 op.82「第1楽章」
  2. シベリウス:交響曲第5番 変ホ長調 op.82「第2楽章」
  3. シベリウス:交響曲第5番 変ホ長調 op.82「第3楽章」

影の印象派



この作品はよく知られているように、シベリウスの生誕50年を祝う記念式典のメインイベントとして計画されました。彼を死の恐怖に陥れた喉の腫瘍もようやくにして快癒し、伸びやかで明るさに満ちた作品に仕上がっています。
しかし、その伸びやかさや明るさは2番シンフォニーに溢れていたものとはやはりどこか趣が異なります。
それは、最終楽章で壮大に盛り上がったフィナーレが六つの和音によって突然断ち切られるように終わるところに端的にあらわれています。さらに、若い頃の朗々とした旋律線は姿を消して、全体として動機風の短く簡潔な旋律がパッチワークのように組み合わされるようになっています。

誰の言葉かは忘れましたが、この後期のシベリウスとドビュッシーの親近性を指摘し、?実際シベリウスとドビュッシーは1909年にヘンリー・ウッドの自宅で出会い、さらにドビュッシーの指揮する「牧神の午後」などを聞いて「われわれの間にはすぐに結びつきが出来た」と述べています?ドビュッシーを光の印象主義だとすれば、シベリウスは影の印象主義だと述べた人がいました。上手いこというものだと感心させられたのですが、まさにここで描かれるシベリウスの田園風景における主役は光ではなく影であることを指摘されると、なるほどと納得させられます。第4番シンフォニーではその世界があまりにも深い影に塗りつぶされていたのに対して、この第5番シンフォニーは影の中に光が燦めいています。
シベリウスは日記の中で、この交響曲のイメージをつかんだ瞬間を次のようにしたためています。
「日はくすみ、冷たい。しかし春はクレッシェンドで近づいてくる。・・・白鳥たちは私の頭上を長い間旋回し、にぶい太陽の光の中に銀の帯のように消えていった。時々背を輝かせながら。白鳥の鳴き声はトランペットに似てくる。赤子の泣き声を思わせるリフレイン。自然の神秘と生の憂愁、これこそ第5交響曲のフィナーレ・テーマだ。」
彼こそは本当に影の印象派だったのです。

いわゆる「手の内」に入った音楽

トルトゥリエのエルガー:チェロ協奏曲を聴き直してみて、指揮者がサージェントであることに気づき、懐かしい思いがしました。

高校の同じクラスにクラシック音楽に入れ込んでいる変な奴がいて、カセットデッキを持ち込んでは「これを聴け!」と押しつけるのでみんなから恐れられていたのですが(^^;、何故か私とは波長があったので、その「これを聴け!」という音楽を結構面白く聴いていました。
その友人が「これを聴け!」と押しつけていたのがシベリウスでした。そして、彼はいかにシベリウスという作曲家が偉大な存在であるかを熱っぽく語っていました。

ですから、なけなしの小遣いをはたいてカラヤンの悲愴を買った次に選んだのがシベリウスだったわけです。
ただし、彼が「聴け!」というシベリウスの音楽はいまいちよく分かんないので、できれば一番安いのにしようと言うことで選んだのがニューセラフィムシリーズのサージェント盤だったわけです。

サージェントという人は存命中は結構ブイブイ言わせた人で人気もあり、ビートルズの録音現場にも「ハロー!!」等と訪ねていったりもして話題にもなったりしました。しかし、67年になくなってしまうと急激に認知度は下がってしまい、私がクラシック音楽などというものを聞き始めた70年代中頃には「セラフィムシリーズ」という廉価版の看板指揮者になっていました。そして、世がLPレコードからCDへと移行しはじめた80年代にはいると、本当に過去の人になってしまいました。

さて、どうしてそんな事になったのかと不思議にも思ったので、EMIを中心として残された彼の録音をある程度まとめて聞き直してみました。そして、その結果としてある事実に気づかされました。

サージェントという人はイギリスの作曲家の良き理解者であり支持者でもありました。エルガー、ホルスト、ブリテン等というそれなりに認知度のある作曲家だけでなく、ウォルトンやヴォーン=ウィリアムズ、さらにはアフリカ系イギリス人のサミュエル・コールリッジ=テイラー等の作品も熱心に取り上げています。
また、合唱の指揮者としてスタートしたこともあって、合唱を伴った作品の扱いは得意としていて、メンデルスゾーンの「エリヤ」、ヘンデルの「メサイア」という定番だけでなく、エルガーも「ゲロンティアスの夢」やウォルトンの「ベルシャザールの饗宴」などと言うレアな作品もよく取り上げています。
そして、そう言うレアではあるけれども、彼にとっては「手の内」に入った音楽では、非常にアグレッシブな演奏を聴かせてくれます。言葉をかえれば、自信満々に「自分の音楽」を展開してくれていて聞きごたえは十分にあります。

ところが、それが一転してベートーベンやシューベルトみたいな、いわゆるドイツ・オーストリア系の正統派の音楽になると、急に行儀良くなるのです。例えば、1960年に録音したベートーベンの3番「エロイカ」やシューベルトの「未完成」になると、いわゆる楷書風のさらっとした音楽になってしまっています。それを趣味の良い外連味のない音楽と評することも出来るのでしょうが、こういう二つの顔を見せつけられると「内弁慶」という言葉が頭の上を過ぎらざるを得ません。
そして、クラシック音楽の世界というのは、辺境部分でどんなに素晴らしい演奏を聴かせても、ドイツ・オーストリア系の正統派の部分でそれなりの実績を残さないと、早晩その存在は忘れ去られるという「悲しい現実」に行き当たることになるのです。

もちろん、その事の是非、または価値判断は保留しますが、この事実に思い当たったときに思い浮かんだ顔が「OZAWA」でした。
もちろん、彼に対する評価が今後どうなっていき、どのような形で定着していくのかは私如きが云々するよう話ではありません。しかし、彼のディスコグラフィを眺めてみれば、ベートーベンの欠落はあまりに大きいと言わざるを得ません。

と言うことで、話がいささか横にそれましたが、今回紹介した一連のホルストの作品と、イギリス人が大好きだったシベリウスにの音楽に関しては、完全に「手の内」に入った音楽です。少なくとも、こういう録音だけは、後世にも引き継いでいきたいものだとは思います。
特にホルストの「惑星」は数ある同曲異演盤の中でも十分すぎるほどの存在価値がある演奏です。もちろん、昨今の録音と較べればオケのアンサンブルの精度にはもう少し注文をつけたくなる部分ありますが、普通に人間が演奏してるならば、この程度の精度もあれが十分です。逆に精度は上がっているものの、蒸留水のような無味無臭の響きを聞かれるよりははるかに好ましく思えます。
その事はシベリウスの交響曲に言えます。歌うべきところはしっかり歌っている、そして畳み込むべきところはしっかりとオケを追い込んでいる人間味溢れる演奏は聴いていて実に楽しいのです。

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