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チャイコフスキー:交響曲 第5番 ホ短調 作品64

クーベリック指揮 ウィーンフィル 1960年1月21日~24日録音

  1. チャイコフスキー:交響曲 第5番 ホ短調 作品64「第1楽章」
  2. チャイコフスキー:交響曲 第5番 ホ短調 作品64「第2楽章」
  3. チャイコフスキー:交響曲 第5番 ホ短調 作品64「第3楽章」
  4. チャイコフスキー:交響曲 第5番 ホ短調 作品64「第4楽章」

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何故か今ひとつ評価が低いのですが・・・

チャイコフスキーの後期交響曲というと4・5・6番になるのですが、なぜかこの5番は評価が今ひとつ高くないようです。

 4番が持っているある種の激情と6番が持つ深い憂愁。その中間にたつ5番がどこか「中途半端」というわけでしょうか。それから、この最終楽章を表面的効果に終始した音楽、「虚構に続く虚構。すべては虚構」と一部の識者に評されたことも無視できない影響力を持ったのかもしれません。また、作者自身も自分の指揮による初演のあとに「この作品にはこしらえものの不誠実さがある」と語るなど、どうも風向きがよくありません。
 ただ、作曲者自身の思いとは別に一般的には大変好意的に受け入れられ、その様子を見てチャイコフスキー自身も自信を取り戻したことは事実のようです。

 さてユング君はそれではどう思っているの?と聞かれれば「結構好きな作品です!」と明るく答えてしまいます。チャイコフスキーの「聞かせる技術」はやはり大したものです。確かに最終楽章は金管パートの人には重労働かもしれませんが、聞いている方にとっては実に爽快です。第2楽章のメランコリックな雰囲気も程良くスパイスが利いているし、第3楽章にワルツ形式を持ってきたのも面白い試みです。
 そして第1楽章はソナタ形式の音楽としては実に立派な音楽として響きます。
 確かに4番と比べるとある種の弱さというか、説得力のなさみたいなものも感じますが、同時代の民族主義的的な作曲家たちと比べると、そういう聞かせ上手な点については頭一つ抜けていると言わざるを得ません。
 いかがなものでしょうか?

どす黒いチャイコフスキー


あまり評判のよくないクーベリックのチャイコフスキーです。ネット上を散見すると「へっぽこ指揮者」とか、ウィーンフィルがあまりにも「手抜き」「ダレてる」とか、「若武者の覇気のカケラも感じられない」とか・・・、まあぼろくそ言われています。
しかし、調べてみると、クーベリックとウィーンフィルはこのチャイコフスキー後期の交響曲をかなり念入りに録音しています。


  1. チャイコフスキー:交響曲第4番 ヘ短調 作品36 1960年1月18日,19日録音

  2. チャイコフスキー:交響曲 第5番 ホ短調 作品64 1960年1月21日~24日録音

  3. チャイコフスキー:交響曲 第6番 ロ短調 作品74「悲愴(Pathetique)」 1960年1月24日,25日&27日,28日録音



さらに、録音会場に使っているのは「musikverein groser saal」、つまりは、ほぼ半月にわたってウィーンのムジークフェラインザールを押さえてセッション録音をしているのです。さらに言えば、録音プロデューサーは英デッカの重鎮ヴィクター・オロフ(56年にデッカは退社したのでこの時はEMIに移籍していましたが・・・)がつとめているのです。
まあ、普通に考えれば、指揮者が「へっぽこ」で、オケも「手抜き」で「ダレて」いて、おまけに演奏そのもに「覇気のカケラも感じられない」ようなものが「OK」になると考える方がどうかしています。

とはいえ、「ブランド」だけで演奏や録音の良し悪しが決まるわけではないので、己の耳と心を信じるのも大切なのですが、それと同じくらいに、己の耳と心を疑ってみることも大切なことです。

おそらく、この録音を前にしたときに問題となるのは、このウィーンフィルの響きをどうか解釈すべきなのか、なのでしょう。
正直言って、パッと聞いた限りでは何ともいえずザラザラした荒い響きに聞こえますので、「なんだ?またまたウィーンフィルは指揮者が若いと思って手を抜いているのか」と思いました。

今さら言うまでもないことですが、このウィーンフィルほど性悪なオケはありません。指揮者が能なしだと思えばいくらでも手を抜きますし(ニューイヤーコンサートでは明らかにこいつ酒呑んでる!と言うメンバーがいますよね)、さらには考えられる限りの嫌がらせとイジメを平気でします。ですから、このウィーンフィルらしくない響きを前にしたときには、そういう疑惑を感じても当然なのです。

しかし、聞き進んでいくと、実は「手抜き」ではないことがだんだん分かってきます。
ここでのクーベリックが求めているのは「若武者の覇気」などではなく、ましてやチャイコフスキーという「ブランド」から安易に類想されるようなメランコリックな「泣き節」でもありません。
とはいえ、5番と6番「悲愴」の音楽の違いもあるので、ここではさすがに「悲愴」から匂い立ったような「どす黒くも重たい世界」でもありません。

ここでクーベリックが求めているのは、交響曲を書くことを求められたチャイコフスキーの「運命」に寄り添って、彼の作品を彼が望んだような「交響曲」として再構築してみることだったのではないでしょうか。
言葉をかえれば、ある意味では、作品が持っている生の姿が生のままで投げ出したような演奏になっています。

ですから、「悲愴」では、そこに何ともいえない「どす黒くも重たい世界」を感じとってしまいました。そして、この5番では、正直言って、構成の弱さから繰る「虚仮威し」みたいなものが否応なくあぶり出されてきます。クーベリックが作品に忠実であろうとすればするほど、最終楽章のコーダに突入するあたりでは、聞いている方が気恥ずかしくなってくるほどです。

ただ、分からないのは、このウィーンフィルの響きです。「悲愴」のようなどす黒い世界にウィーンフィル本来の艶やかな響きはフィットしないのは分かるのですが、この5番でも同じようなドスのきいた野太い響きで押し通しています。ウィーンフィルならば、もう少し明るめの艶のある響きは簡単に出せると思うだけに、この点に関しては実に不思議です。