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バッハ:管弦楽組曲第2番 ロ短調 BWV1067
カラヤン指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 (flute)Karlheinz Zoeller (harpsichord)Edith Picht-Axenfeld 1965年2月22日録音をダウンロード
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ブランデンブルグ協奏曲と双璧をなすバッハの代表的なオーケストラ作品
ブランデンブルグ協奏曲はヴィヴァルディに代表されるイタリア風の協奏曲に影響されながらも、そこにドイツ的なポリフォニーの技術が巧みに融合された作品であるとするならば、管弦楽組曲は、フランスの宮廷作曲家リュリを始祖とする「フランス風序曲」に、ドイツの伝統的な舞踏音楽を融合させたものです。
そのことは、ともすれば虚飾に陥りがちな宮廷音楽に民衆の中で発展してきた舞踏音楽を取り入れることで新たな生命力をそそぎ込み、同時に民衆レベルの舞踏音楽にも芸術的洗練をもたらしました。同様に、ブランデンブルグ協奏曲においても、ともすればワンパターンに陥りがちなイタリア風の協奏曲に、様々な楽器編成と精緻きわまるポリフォニーの技術を駆使することで驚くべき多様性をもたらしています。
ヨーロッパにおける様々な音楽潮流がバッハという一人の人間のもとに流れ込み、そこで新たな生命力と形式を付加されて再び外へ流れ出していく様を、この二つのオーケストラ作品は私たちにハッキリと見せてくれます。
ただし、自筆のスコアが残っているブランデンブルグ協奏曲に対して、この管弦楽組曲の方は全て失われているため、どういう目的で作曲されたのかも、いつ頃作曲されたのかも明確なことは分かっていません。それどころか、本当にバッハの作品なのか?という疑問が提出されたりもしてバッハ全集においてもいささか混乱が見られます。
疑問が提出されているのは、第1番と第5番ですが、新バッハ全集では、1番は疑いもなくバッハの作品、5番は他人の作品と断定し、今日ではバッハの管弦楽組曲といえば1番から4番までの4曲ということになっています。
- 管弦楽組曲第1番 BWV1066:荘厳で華麗な典型的なフランス風序曲に続いて、この上もなく躍動的な舞曲が続きます。
- 管弦楽組曲第2番 BWV1067:パセティックな雰囲気が支配する序曲と、フルート協奏曲といっていいような後半部分から成り立ちます。終曲は「冗談」という標題が示すように民衆のバカ騒ぎを思わせる底抜けの明るさで作品を閉じます。
- 管弦楽組曲第3番 BWV1068:この序曲に「着飾った人々の行列が広い階段を下りてくる姿が目に浮かぶようだ」と語ったのがゲーテです。また、第2曲の「エア」はバッハの全作品の中でも最も有名なものの一つでしょう。
- 管弦楽組曲第4番 BWV1069:序曲はトランペットのファンファーレで開始されます。後半部分は弦楽合奏をバックに木管群が自由に掛け合いをするような、コンチェルト・グロッソのような形式を持っています。
バッハの壊れにくさ
カラヤンは疑いもなく20世紀を代表する偉大な指揮者の一人です。しかし、何故かその評価に関しては二分されます。中には、アンチ・カラヤンこそがクラシック音楽を深く理解していることの証しであるかのように信じておられる方もいるようです。「いるようです」という婉曲な表現をしたのは、次第にその様なスタンスをとられる方が少なくなってきているように見受けられるからであって、一昔前ならばそれは一つの「常識」ですらありました。
カラヤンを、その一昔前の偉大なマエストロ達と較べてみると、誰もが見ただけで分かる違いが一つあります。
それはレパートリーの広さです。
昔の偉いマエストロ達は、驚くほどにレパートリーが狭いのです。こう書くと誤解を招くかもしれないのでもう少し丁寧に表現すると、実際の演奏の場で取り上げる作品の数がとても限定されるのです。
例えば、フルトヴェングラーと言えばベートーベンとなるのですが、よく知られているようにその9曲ある交響曲を満遍なく演奏会で取り上げているわけではありません。どちらかと言えば奇数番号の作品は頻繁に取り上げているのですが偶数番号の作品に関してはそれほど熱心ではありません。とりわけ2番の交響曲はほとんど取り上げていません。
さらに酷いのがクナです。もちろん例外はありますが、ブルックナーやワーグナー以外には基本的に興味がなかったように見えるほどの頑なさです。
それらと較べると、カラヤンの守備範囲の広さは驚異的です。幾つかの例外はありますが、基本的にはバッハからシェーンベルクまで、好き嫌いなく満遍なく取り上げているのが特徴です。そして、クラシック音楽の世界で「バッハからシェーンベルクまで」という表現はほぼ全てを網羅しているという比喩表現となるのですが、彼のディスコグラフィを調べてみるとバッハ以前のモンテヴェルディの歌劇(ポッペアの戴冠)なども取り上げているのですから大したものです。
そして、このようなカラヤンのスタンスが、それ後の指揮者のあり方を根本から変えたとも言えます。
カラヤン以前は、偉いマエストロともなれば自分の十八番の芸を披露してくれるだけで満足すべきものだと考えられていました。しかし、カラヤンは聞き手の要望に応えてあらゆる作品をそれなりのクオリティで提供して見せました。そうなると、彼に続く指揮者はそれを見習わなければならなくなったのです。
指揮者というのは大変な仕事です。
カラヤンよりは一世代前に属するミュンシュでさえ、「指揮者というものは音楽院の門をくぐったその日から、疲れ果てて最後のコンサートの指揮棒を置くその日まで勉強を続けなければいけない」と語っているのです。ミュンシュは、フルトヴェングラー等と較べればかなり広いレパートリーを持っていましたが、それでも「ベルリオーズのスペシャリスト」と思われる向きもありました。
つまりは、ある程度の集中と分散があったのですが、それがカラヤンとなると特定の分野に集中することはなく、かわりにあらゆる分野にわたって「欠落」と思われるような部分をうまないように目配りをしていたのです。
カラヤンという人は己の努力をしている姿を絶対に見せることなく、その大変なことをいとも容易く成し遂げているかのように振る舞い続けた男でした。
しかし、ミュンシュが語っているように、それは涼しい顔をして容易く成し遂げることが出来るようなものでないのですが、それでも格好をつけて常に涼しい顔をし続けた男だったのです。
これは実に持って驚くべき事です。
しかし、そうやって広大なレパートリーを築き上げていけば、そこにある程度の出来不出来が生じる事はやむを得ないことでした。
そして、その不出来の象徴のように常に槍玉に挙がるのがバッハでした。
何故か?
それは実際に聞いてみればすぐに納得がいきます。
この時代、バッハというものは厳しい音楽であり、その厳しさの中から多くの人は深い精神性を感じとっていたのです。もっとも、こういう抽象的な言い方をしなくても、その典型であるリヒターのバッハ演奏の幾つかを聞いてみればすぐに納得できるはずです。もしくは、シゲティの無伴奏を聞いてみればいいでしょう。
そう言うバッハと較べれば、カラヤンのバッハは常に美音で美しい旋律ラインを描き出してみせる演奏でした。口さがない連中はまるでイージー・リスニングみたいなだとか、ムード音楽みたいなバッハだと言いました。
そして、その一つの典型がここにあります。
この6曲からなるブランデンブルグ協奏曲は、まさにその様なムード音楽のようなバッハです。ここにはバッハが持つ厳しさは欠片もなく、全てがふんわりとした美しい響きの中で時間が流れていきます。ですから、これを、これからバッハを聴こうとする人に対するファースト・チョイスにするつもりはありません。
しかし、それではこれはバッハの音楽ではないのかと聞かれれば、それもまた少し違うように思うのです。
驚くべきは、バッハの音楽の壊れにくさにくさです。
この美しさの中でたゆたう音楽もまた疑いもなくバッハです。この美しさもまたバッハという音楽の抽斗の中から持ち出してきたものであり、それ故にこれもまたバッハなのだと納得させてくれる演奏であることは否定できません。
なお、カラヤンはこの後映像作品としてもこのブランデンブルグ協奏曲を取り上げているのですが、そこでは自らがハープシコードを演奏しながら指揮をしていました。しかし、この64年から65年にかけての録音では、ハープシコードはアクセンフェルトに任せて、自らは指揮に専念しています。
このあたりの使い分けが「格好つけ」として嫌われる要因になっているのかもしれません。
さらに言えば、この録音は6番を除くと夏の休暇中にスイスのサンモリッツで行われています。
汗水垂らして必死で努力している姿は絶対に見せない男だったのですが、それを最後まで貫き通したところにこの男のもう一つの凄さがあると思うのですが、闘魂と根性が尊ばれる国ではそれもまた嫌われる要因になってしまったのかもしれません。