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ビゼー:「カルメン」第2組曲
マルケヴィッチ指揮 ラムルー管弦楽団 1959年12月録音をダウンロード
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ホフマン版カルメン組曲
カルメン組曲は、ビゼー自身が選曲をしたのではなく、ホフマンによって構成されたものです。
一般的には以下のような構成になっていて、厳密には「ホフマン版組曲」と呼ばれるものです。
第1組曲:前奏曲と間奏曲を中心に構成される。
- 前奏曲
- アラゴネーズ (第1幕への前奏曲の後半部分、第4幕への間奏曲)
- 間奏曲 (第3幕への間奏曲)
- セギディーリャ
- アルカラの竜騎兵 (第2幕への間奏曲)
- 終曲(闘牛士) (第1幕への前奏曲の前半部分)
第2組曲:アリアや合唱入りの曲をオーケストラ用に編曲した6曲で構成される。
- 密輸入者の行進
- ハバネラ
- 夜想曲 (ミカエラのアリア)
- 闘牛士の歌
- 衛兵の交代(子どもたちの合唱)
- ジプシーの踊り
しかしながら、この組曲はビゼー自身の手になるものではないと言うこともあって、この形のままで演奏されることは滅多にないようです。
指揮者によって、その順番が変えられたり幾つかの曲が削除されるのが一般的です。
マルケヴィッチもまたその様な「慣例(?)」に従って、以下のように手を加えています。
第1組曲
- 終曲(闘牛士) (第1幕への前奏曲の前半部分)
- 前奏曲
- アラゴネーズ (第1幕への前奏曲の後半部分、第4幕への間奏曲)
- 間奏曲 (第3幕への間奏曲)
- アルカラの竜騎兵 (第2幕への間奏曲)
第2組曲
- 密輸入者の行進
- ハバネラ
- 夜想曲 (ミカエラのアリア)
- 闘牛士の歌
- ジプシーの踊り
また一人、集中的に追跡しなければいけない指揮者と出会ってしまったようです。
一部の評論家によって振りまかれたイメージがいつの間にか広まってしまって判断を根本から間違ってしまうと言うことがよくあります。その最たるものの一つが、セルは「冷たくて硬い」という評価でしょう。
さすがに、今の時代にこのような評価を真に受ける人はほとんど絶滅したとは思います。しかし、合奏の精度だけを狂気のように追い求めたという狭い評価は未だに根を張っていますから、最初に言い出した奴の罪は重いのです。
それから、ギレリスのことを「豪腕ピアニスト」などと言った評論家も酷いものです。しかしながら、これもまたこのキャッチコピーは長年にわたってギレリスにつきまといました。彼のピアニズムの基本は繊細なタッチから紡ぎ出される深い叙情性と、細部を曖昧にしないクリアな響きにあることはデビューの時からはっきりと刻印されているですから、こんなことを言い出した方のツミもかなり重いと言わざるを得ません。
まあ、それ以外にも酷いものはたくさんあります。
最晩年のごく一部の録音を聞いただけでシェルヘンのことを爆演指揮者と言ってみたり、古いところではライナーのことを「ミスター・メトロノーム」といった評論家もいました。
しかし、そうやって一度貼られてしまったレッテルというのはなかなか剥がせないので、受け取る方もよほど注意しないといけません。
聞くところによると、シェルヘンの娘さん(ミリアム・シェルヘン)が「Tahra」レーベルをはじめたのは、その様にして貼られた父へのレッテルを剥がしたいというのも動機の一つだったと聞いたことがあります。
そして、マルケヴィッチです。
彼に関しても、例えば「バイオレンス」「野蛮性」「バーバリズム」などと言うレッテルが貼り付けられています。そして、これもまたどういう聴き方をすればこういうレッテルが思いつくのか首をかしげざるを得ません。
しかし、正直に告白すれば、私もまたそう言うレッテルに目くらましをされて、長きにわたって彼とは距離を置いていたのです。
そして、ひょんなきっかけから彼の録音を幾つか聞く機会があり、そう言うレッテルのいかにアホくさいことかに気づかされて愕然としたのです。
しかし、過去に一度だけ彼の録音を取り上げていたことに気づきました。ハスキルの伴奏指揮者としての録音は幾つか取り上げてはいたのですが、マルケヴィッチそのものを取り上げたのは、1953年録音の「展覧会の絵」だけです。その時には、概ね以下のようなことを綴っていました。
「彼の演奏を聴いてみて驚くのは、オケの下手さを感じさせないほどに完成度が高いことです。もちろん、個々の奏者の力量はどうしようもないのでゴージャスでリッチな響きを求めるのは無理ですが、音楽の姿がいつも明確で実にクリアなのです。とにかく、一つ一つのフレーズが全て意味を持って鳴らされているので、曖昧さというものが全く存在しないのは実に驚くべき事です。」
と言うことは、このベルリンフィル以外の録音も聞いていたようです。
「このベルリンフィルとのコンビで録音された展覧会の絵も、音楽の造形を常にクリアにしようとするマルケヴィッチの手法がよくあらわれています。派手さはありませんが、「展覧会の絵」という作品の構造が手に取るように分かる演奏です。」
なるほど、「バイオレンス」「野蛮性」「バーバリズム」などと言うレッテルにとらわれることなく、自分なりに感じたことを正直に書いていたのでホッとしました。そして、「音楽の姿がいつも明確で実にクリア」だとか「一つ一つのフレーズが全て意味を持って鳴らされているので、曖昧さというものが全く存在しない」というのは、今回感じたことと大差ありません。
ただし、その時にその様に感じながら、さらに次ぎに繋がらなかったのは、そう言うことに感心はしながらも「感動」をするほどのレベルではなかったのでしょう。そして、件の録音を聞き直してみて、録音のクオリティに関わる問題もあって、それはそれで仕方の無かった出会いだったと認めざるを得ないものでした。
もしも、その時に、例えばここで紹介したビゼーの「アルルの女」や「カルメン」の組曲を聴いていれば、その後の展開は随分かわったことでしょう。
とりわけ、「アルルの女」の組曲を聴いて感じたのは、まるでチェリビダッケのようだと言うことでした。
私が聞いたことのある範囲では(あまりよいチェリの聞き手はありませんので)、ミュンヘンフィルとのシューマンの4番で感じた音楽の作り方と相似形のものを感じました。
オケは力感というものを一切排して、一つ一つの響きがまるで脆いガラス細工のように積み上げられていきます。ただし、その偏執ぶりはさすがにチェリに域にまでは達していませんが、それは彼らの時の隔たりを考えてみれば仕方のないことです。今から半世紀以上も前の時代にあって、このような演奏を指向していたとは驚くほかありません。
言うまでもないことですが、オケからこのような響きを出そうと思えば、それこそ死ぬほどのリハーサルが必要です。そして、聞くところによると、マルケヴィッチもまたチェリと同じような常軌を逸したほどの厳しいリハーサルを要求し、その結果として一つのオーケストラと長く関係を維持できなかったと伝えられています。
このパリの(かつては名門であった)ラムルー管弦楽団でもその厳しい練習に楽団員が反旗を翻して、わずか数年(1957年~1961年)で首になっています。と言うか、練習嫌いで有名なこのオケで、よくぞ4年ももったものだと、その方を驚きます。
それから、「アルルの女」の組曲と言えば、もう一人ケーゲルの録音も思い出します。しかし、あの録音と較べてもマルケヴィッチの録音はさらに思い入れというようなものが希薄であり、ある意味ではさらに現代的ですらあります。
これは困った、また一人、集中的に追跡しなければいけない指揮者と出会ってしまったようです。