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メンデルスゾーン:ヴァイオリン協奏曲 ホ短調 作品64

(vn)クリスチャン・フェラス コンスタンティン・シルヴェストリ指揮 フィルハーモニア管弦楽団 1957年6月26日~28日録音

  1. メンデルスゾーン:ヴァイオリン協奏曲 ホ短調 作品64 「第1楽章」
  2. メンデルスゾーン:ヴァイオリン協奏曲 ホ短調 作品64 「第2楽章」
  3. メンデルスゾーン:ヴァイオリン協奏曲 ホ短調 作品64 「第3楽章」


ロマン派協奏曲の代表選手

メンデルスゾーンが常任指揮者として活躍していたゲバントハウス管弦楽団のコンサートマスターであったフェルディナント・ダヴィットのために作曲された作品です。ダヴィッドはメンデルスゾーンの親しい友人でもあったので、演奏者としての立場から積極的に助言を行い、何と6年という歳月をかけて完成させた作品です。

この二人の共同作業が、今までに例を見ないような、まさにロマン派協奏曲の代表選手とも呼ぶべき名作を生み出す原動力となりました。
この作品は、聞けばすぐに分かるように独奏ヴァイオリンがもてる限りの技巧を披露するにはピッタリの作品となっています。かつてサラサーテがブラームスのコンチェルトの素晴らしさを認めながらも「アダージョでオーボエが全曲で唯一の旋律を聴衆に聴かしているときにヴァイオリンを手にしてぼんやりと立っているほど、私が無趣味だと思うかね?」と語ったのとは対照的です。
通常であれば、オケによる露払いの後に登場する独奏楽器が、ここでは冒頭から登場します。おまけにその登場の仕方が、クラシック音楽ファンでなくとも知っているというあの有名なメロディをひっさげて登場し、その後もほとんど休みなしと言うぐらいに出ずっぱりで独奏ヴァイオリンの魅力をふりまき続けるのですから、ソリストとしては十分に満足できる作品となっています。。

しかし、これだけでは、当時たくさん作られた凡百のヴィルツォーゾ協奏曲と変わるところがありません。
この作品の素晴らしいのは、その様な技巧を十分に誇示しながら、決して内容が空疎な音楽になっていないことです。これぞロマン派と喝采をおくりたくなるような「匂い立つような香り」はその様なヴィルツォーゾ協奏曲からはついぞ聞くことのできないものでした。また、全体の構成も、技巧の限りを尽くす第1楽章、叙情的で甘いメロディが支配する第2楽章、そしてファンファーレによって目覚めたように活発な音楽が展開される第3楽章というように非常に分かりやすくできています。

確かに、ベートーベンやブラームスの作品と比べればいささか見劣りはするかもしれませんが、内容と技巧のバランスを勘案すればもっと高く評価されていい作品だと思います。

平均点では見えてこないもの


先に紹介したフランクとフォーレのヴァイオリンソナタの一ヶ月後に、この二つの協奏曲が録音されています。伴奏はシルヴェストリ&フィルハーモニア管です。
フェラスのチャイコフスキーと言えば、一般的にはカラヤン&ベルリンフィルで録音した1965年盤が一般的です。しかし、この二つの録音を聞き比べてみると、この10年足らずの間にクラシック音楽の世界が大きく変わってしまったことがよく分かります。

カラヤンの録音を聞くとき、私たちはいわゆる「巨匠達」の世界が終焉したことをはっきりと感じざるを得ません。外観上は一切の恣意性が排除され、スコアに書き込まれた音符達が機能的なオケによってこの上もなく精緻で美しい響きへと変換されていきます。
そこにはもう、フルトヴェングラーが君臨していた古き良き時代の面影は跡形もなく消え去っています。

しかし、カラヤン達の若い世代が巨匠達の二番煎じに陥ることを拒否するならば、言葉をかえれば、過去の巨匠達とは異なる価値観に基づいて新しい世界を切り開いていこうとするならば、避けて通れない変化だったことも納得させてくれる演奏です。
何度も繰り返しますが、その事をもって「昔の巨匠達は偉かった、それと比べれば後に続く世代は粒が小さい・・・」みたいな物言いは根本的に間違っています。

過去のある時代の価値観を絶対視し、それを価値判断の基準として後の世代に駄目出しをするのは、愚かな年寄りの愚痴でしかないのです。

それからもう一つ、この録音を聞くと、フェラスもまたその様な新しい表現に自らのヴァイオリンを添わせていこうと奮闘している姿が手に取るように分かります。
しかし、悲しいかな、フェラスの本質は明らかに古き良き巨匠達の時代にありました。
その事は、先に紹介したフランクやフォーレのヴァイオリンソナタを聞けば明らかです。

そう言えば、彼が幼い時代に学んだ師はカペーでした。
そんな出自を持つヴァイオリニストがかくも機能的なカラヤンの世界に添っていくというのは、たいへんな自己変革を求められた事でしょう。
もっと分かりやすく表現すれば、「随分と無理してるなぁ!」と言うことです。

それと比べると、この57年に録音されたシルヴェストリとの録音では、フェラスは実に楽しげで自由です。
そこでは、何よりもフェラスが感じたチャイコフスキーの世界を、自らの美音でもって何の疑いもなく自由に描ききっています。そして、それをサポートするシルヴェストリもまた同じベクトルをもった音楽家なので、そんなフェラスの美質が引き立つようにオケをコントロールしてくれています。

確かに、作品のプロポーションと言うことで言えば、間違いなくカラヤンとの65年盤の方がすぐれています。
おそらく、演奏という行為を幾つかの観点に細分化して得点化すれば、平均点が高くなるのは間違いなくカラヤンとの競演盤です。そして、そう言う演奏が持っている魅力は決して否定しません。
しかし、音楽というのは、その様な立派さだけで成り立っているものではないことも、このシルヴェストリとの録音は教えてくれます。

音楽は減点法では採点できません。
この57年盤の主観に徹したロマンティックな表現には、他に抜きんでた魅力があります。

なお、メンデルスゾーンの方は、何故かカラヤンはフェラスとは録音をしていません。
残念なことです。
もしも、これと同じ時期に録音を残してくれていれば、この時代の変化、主観に重きをおいた時代から客観性に重点が移っていくこの時代の変化がもっとはっきりと刻印されたことでしょう。
何故ならば、作品が持つ「灰汁」と、フェラスの持つ「灰汁」がまさにピッタリ一致するからです。

メンゾルスゾーンという舞台を得て、さらには、シルヴェストリという心強いサポートを得て(^^;、フェラスが持つ主観性の強い表現が内包している魅力は思う存分に発揮されています。

こういう表現が大手を振って表通りを歩いていた時代もあったのです。
昔は良かったという年寄りの愚痴には気をつけながら、失われた昔の「美」に思いをはせるのもまた楽しからずやです。