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ヴィヴァルィ:ヴァイオリン協奏曲集「四季」より「冬」

レナード・バーンスタイン指揮 (Vn)ジョン・コリリアーノ ニューヨーク・フィル 1964年1月27日録音

  1. ヴィヴァルィ:ヴァイオリン協奏曲集「四季」より「冬」 「第1楽章」
  2. ヴィヴァルィ:ヴァイオリン協奏曲集「四季」より「冬」 「第2楽章」
  3. ヴィヴァルィ:ヴァイオリン協奏曲集「四季」より「冬」 「第3楽章」


「四季」と言った方が通りがいいですね(^^;

ヴァイオリン協奏曲集「和声と創意の試み」と言うよりは、「四季」と言った方がはるかに通りがいいですね。
ただヴィヴァルディは12曲からなる協奏曲集として作品をまとめており、その中に「春」「夏」「秋」「冬」という表題がつけられている4曲が存在するわけです。
それにしてもこの4曲をセットにして「四季」と名付けられた作品のポピュラリティには驚くべきものがあります。特に、「春」の第1楽章のメロディは誰もが知っています。
まさに四季といえばヴィヴァルディであり、ヴィヴァルディといえば四季です。
そして、その功績は何と言ってもイ・ムジチ合奏団によるものです。
ある一つの作品が、これほど一人の作曲家、一つの演奏団体に結びつけられている例は他には思い当たりません。(試しに、ヴィヴァルディの作品を四季以外に一つあげてください。あげられる人はほとんどいないはずです。)

そのような有名作品の中でが一番好きなのが「冬」です。
それは明らかに北イタリアの冬です。ローマやナポリの冬ではありませんし、ましてや絶対にドイツの冬ではありません。
ヴィヴァルディが生まれ育ったヴェネチアは北イタリアに位置します。その冬は、冬と言っても陽光のふりそそぐ南イタリアと比べればはるかに厳しいものですが、ドイツの冬と比べればはるかに人間的です。
厳しく、凛としたものを感じさせてくれながらも、その中に人間的な甘さも感じさせてくれるそんな冬の情景です。

四季といえば「春」と思いこんでいる人も、少しは他の季節にも手を伸ばしてくれればと思います。(^^

なお、「四季」と呼ばれる4曲には以下のようなソネットがそえられています。

協奏曲第1番ホ長調、RV.269「春」

アレグロ
春がやってきた、小鳥は喜び囀りながら戻って来て祝っている、水の流れと風に吹かれて雷が響く。小川のざわめき、風が優しく撫でる。春を告げる雷が轟音を立て黒い雲が空を覆う、そして嵐は去り小鳥は素晴らしい声で歌う。鳥の声をソロヴァイオリンが高らかにそして華やかにうたいあげる。みな、和やかに

ラルゴ
牧草地に花は咲き乱れ、空に伸びた枝の茂った葉はガサガサ音を立てる。ヤギ飼は眠り、忠実な猟犬は(私の)そばにいる。弦楽器の静かな旋律にソロヴァイオリンがのどかなメロディを奏でる。ヴィオラの低いCis音が吠える犬を表現している。

アレグロ(田園曲のダンス)
陽気な田舎のバグパイプがニンフと羊飼いを明るい春の空で踊る。

協奏曲第2番ト短調、RV.315「夏」

アレグロ・ノン・モルト?アレグロ
かんかんと照りつける太陽の絶え間ない暑さで人と家畜の群れはぐったりしている。松の木は枯れた。カッコウの声が聞こえる。そしてキジバトとスズメの囀りが聞える。柔らかい風が空でかき回される。しかし、荒れた北風がそれらを突然脇へ追い払う。乱暴な嵐とつんのめるかも知れない怖さで慄く。原譜には「暑さで疲れたように弾く」と指示がある。ヴァイオリンの一瞬一瞬の“間”に続いての絶え間ない音の連続が荒れる嵐を表現している。

アレグロ・プレスト・アダージョ
彼の手足は稲妻と雷鳴の轟きで目を覚まし、ブヨやハエが周りにすさまじくブンブン音を立てる。それは甲高い音でソロヴァイオリンによって奏でられる。

プレスト(夏の嵐)
嗚呼、彼の心配は現実となってしまった。上空の雷鳴と巨大な雹(ひょう)が誇らしげに伸びている穀物を打ち倒した。

協奏曲第3番ヘ長調、RV.293「秋」

アレグロ(小作農のダンスと歌)
小作農たちが収穫が無事に終わり大騒ぎ。ブドウ酒が惜しげなく注がれる。彼らは、ほっとして眠りに落ちる。

アダージョ・モルト(よっぱらいの居眠り)
大騒ぎは次第に弱まり、冷たいそよ風が心地良い空気を運んで来てすべての者を無意識のうちに眠りに誘う。チェンバロのアルペジオに支えられてソロヴァイオリンは眠くなるような長音を弾く。

アレグロ(狩り)
夜明けに、狩猟者が狩猟の準備の為にホルンを携え、犬を伴って叫んで現れる。獲物は彼らが追跡している間逃げる。やがて傷つき獲物は犬と奮闘して息絶える。

協奏曲第4番ヘ短調、RV.297「冬

アレグロ・ノン・モルト
身震いして真ん中で凍えている。噛み付くような雪。足の冷たさを振り解くために歩き回る。辛さから歯が鳴る。ソロヴァイオリンの重音で歯のガチガチを表現している。

ラルゴ
外は大雨が降っている、中で暖炉で満足そうに休息。ゆっくりしたテンポで平和な時間が流れる。

アレグロ
私たちは、ゆっくりとそして用心深くつまづいて倒れないようにして氷の上を歩く。ソロヴァイオリンは弓を長く使ってここの旋律を弾きゆっくりとそして静かな旋律に続く。しかし突然、滑って氷に叩きつけられた。氷が裂けて割れない様、そこから逃げた。私たちは、粗末な家なのでかんぬきでドアを閉めていても北風で寒く感じる。そんな冬であるがそれもまた、楽しい。

他に代え難い魅力を持った一枚


バーンスタインの「四季」と言うことになれば、レコード会社からのオファーで「やっつけ仕事」みたいに録音したのだろうと思ってしまいます。実は、私もそう思って「取りあえず」確認のために再生しました。
しかし、聞いてみて、これはもう心の底から驚かされました。

弾むようなリズと強力な推進力に満ちた演奏であり、何よりも演奏者一人ひとりの気迫には並々ならぬものがあるのです。

確かに、この演奏には賛否両論があります。もう少し正確に言えば「否」の方がかなり多いような気がします。
「妙に部厚い響きの弦楽器群は透明性があまり感じられない」とか、「頻繁に変わるテンポ設定は恣意的としか思えない」等々です。
確かに「否」と断じた人たちの言わんとしていることは理解できないではありません。

意外に思われるかもしれませんが、この時代のCBSレーベルの録音はかなり優秀です。しかし、その優秀さは、それを引き出すのがかなり難しいという厄介さをもっています。
その典型とも言えるのが、ブダペスト弦楽四重奏団によるベートーベンの弦楽四重奏曲のステレオ録音です。この録音は「不滅の名盤」というお墨付きはついているのですが、果たしてその本当の素晴らしさをどれほど多くの人が享受できているのかは疑問です。

ナローレンジのシステムでまったりと丸め込んで聞けば十分に美しく響く録音なのですが、それでは4人の奏者がこの演奏に込めた気迫は全く伝わってきません。
さりとて、そう言う安易な再生で満足できずにその気迫を聞き取ろうとすると、途端に弦楽器特有の鋭さが牙をむいて聞き手の耳を突き刺します。
そして、そう言うきつさはシステムをちょっとやそっと弄ったくらいでは乗り越えられないので、結局は元のまったりとした響かせ方に戻ってしまうのです。

実は、これって私のことで、だからブダペストの録音は50年代初頭のモノラル録音の方を高く評価していたのです。
「彼らの最高の業績は?と聞かれればおそらく躊躇うことなくこの50年代初頭のモノラル録音による全集をあげるでしょう。」とまで言い切っていますし、さらに返す刀で「モノラルによる録音と比べてみれば、ステレオによる晩年の録音は明らかに「緩い」と感じてしまいます。」とまで言い切っていましたからね。(^^;

このブダペストのステレオ録音は、オーディオシステムにとっては試金石のような録音で、そのきつさを乗り越えると、弦楽器特有の厳しい音はそのままで決して聞く人の耳は刺すような事はありませんし、さらには、その厳しさの中から弦楽器特有の妖しい美しさも楽しめるようになるのです。そして、その響きにたどり着いたときには、PCオーディオの道を突き進んできて間違いではなかったと確信を持つことが出来るようになったものでした。
つまりは、この時代のCBSの録音にはパッと聞きの派手さはなくても、一切の手加減なしの厳しさで演奏家の気迫までをも封じ込めているのです。

その意味で、80年代以降に主流となった、ラジカセに毛が生えたようなシステムで聞いたときに一番美しく鳴るように、中低域を意図的にふくらませ、独奏ヴァイオリンの音像を大きくしたような録音(カラヤン&ムターによる「四季」なんかはその典型)とは「思想」が根本的に違うのです。

そして、この辺りが、録音メディアを通して音楽を聴くときの難しさです。10以上も前に「CD評価の難しさ」という一文を書いたことがあるのですが、それ以後も(自分としては)レベルがどんどん上がっていく中で、形は違えど本質的には同じような思いに何度も至らざるを得なかったのです。
そして、その結果として、ブダペストのステレオ録音のようにプラス方向にガラッと評価が変わってしまうようなものもあれば、その正反対のものもあったりするのです。

はじめに、このバーンスタインの録音に対して「否」と断じた人たちの気持ちは「理解できないではない」と書いたのは、その様な文脈上においてです。
つまり、この録音もまた、その演奏の凄さを感じとるためには、再生システムをかなり選ぶと言わざるを得ないのです。

ただし、こういう書き方をすると、「それじゃお前はお金をかけないと音楽の素晴らしさは伝わらないというのか」という批判をいただきます。過去にも、これと似たようなことを何度か書いたことがあるのですが、その時もほぼ同趣旨のお叱りをいただきました。
開き直ってしまえば、そう言う批判に対する答えは、半分はイエスで、半分はノーです。

録音という芸術は、やはり再生という行為に真剣に取り組まなければその素晴らしさを十全に引き出すことは出来ません。その意味では、半分はイエスです。
しかし、再生という行為はお金をかけるだけではどうにもならない面をもっていることもまた事実であり、その意味では半分はノーなのです。

例えば、このバーンスタインによる「夏」の第3楽章冒頭は弦楽合奏による激しいパッセージで開始されます。そのパッセージが一段落すると、向かって右手奥の方で勢いよく「譜面」をめくる音がはっきりと刻み込まれています。さらには、これよりははるかに小さい音ですが、何かにふれる音や椅子がきしむような音などもしっかりととらえられています。
こういう環境雑音の雰囲気からすれば、この録音はほぼ一発録りであることはほぼ間違いないようです。
そして、少なくとも、そういう「譜面」をめくるような音がはっきり『「譜面」をめくる音』だと判別できるレベルくらいまでに再生ステムに磨きをかけないと、この録音に封じ込められたバーンスタインとニューヨークフィルの気迫は伝わってきません。そして、それが伝わってこない限りは「妙に部厚い響きの弦楽器群」による不透明な演奏としか聞こえないのです。
つまりは、「再生という行為に真剣に取り組まなければその素晴らしさを十全に引き出すことは出来ない」のです。

録音のクレジットを見てみると以下のようになっています。


  1. 「春」:1963年5月13日録音

  2. 「夏」・「冬」:1964年1月27日録音

  3. 「秋」:1964年2月11日録音



レコード会社からのオファーによる「やっつけ仕事」どころではありません。

おそらくは、バーンスタインとしては入念に準備をして、他の誰のものとも違う新しい「四季」の姿を提示したいという思いがあったことは間違いありません。その入念な準備を「恣意的」と感じる人がいても否定はしませんが、私はその結果として「四季」がまるでロマン派の小品のように再構成されているようで、聞いていて面白かったです。
しかし、それ以上に心に響くのは、そう言うバーンスタインの心意気に応えて気迫を漲らせてこんな小品に取り組んだニューヨークフィルの気迫の凄さです。
この気迫にふれられるだけで、星の数ほどある「四季」の録音の中でも他に代え難い魅力を持った一枚だと言い切れるのではないでしょうか。