クラシック音楽へのおさそい~Blue Sky Label~


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バッハ:音楽の捧げもの

(Vn & Con)ユーディ・メニューイン バース祝祭管弦楽団 1961年録音

  1. バッハ:音楽の捧げもの BWV 1079 [1.Ricercar a 3]
  2. バッハ:音楽の捧げもの BWV 1079 [2.First Group of five canons]
  3. バッハ:音楽の捧げもの BWV 1079 [3.Trio Sonata Largo]
  4. バッハ:音楽の捧げもの BWV 1079 [4.Trio Sonata Allegro]
  5. バッハ:音楽の捧げもの BWV 1079 [5.Trio Sonata Andante]
  6. バッハ:音楽の捧げもの BWV 1079 [6.Trio Sonata Allegro]
  7. バッハ:音楽の捧げもの BWV 1079 [7.Second Group of five canons]
  8. バッハ:音楽の捧げもの BWV 1079 [8.Ricercar a 6]


バッハの意地

バッハ最晩年の作品であり、「フーガの技法」と並んで特別な地位を占める作品なのがこの「音楽の捧げもの」です。
よく知られているように、この作品はプロイセンの国王であったフリードリヒ2世が示した主題(王の主題)をもとにした作品集です。王の主題は、「3声のリチェルカーレ」の冒頭に提示されています。


見れば(聞けば?)分かるように、非常に「現代的」な感じが漂う主題であり、バッハの時代においてはかなり異様な感じのする旋律だったはずです。当然の事ながら、これを主題として処理していくのは不可能とまでは言わなくても、かなりの困難さがあることは容易に想像がつくような代物です。ですから、本当にフリードリヒ2世自身がこの主題を示したのかは疑問です。

当時、プロイセンの宮廷には息子であるフィリップ・エマヌエル(C.P.bach)が勤めていたのですが、そこへ親父であるバッハが尋ねてきたのです。おそらくは、この宮廷楽団の中でバッハ一族の力が伸びていくのを快く思わなかった一部の音楽家達が、その鼻っ柱をへし折ってやろうという「悪意」に基づいて作り出したものではないかと想像されます。(真実は分かりませんが・・・)
何故ならば、フルート奏者としても名高かったフリードリヒ2世は作曲も行っていて幾つかの作品が残されているのですが、その作風はこの主題とは似てもにつかないギャランとな性格を持っていたからです。

ただ、バッハの高名はプロイセンにも届いていましたから、その実力の程を試してやろうという「悪戯心」は王も共有していたかもしれません。
しかし、王にとっては一場の座興であったとしても、バッハにしてみれば真剣勝負であったはずです。そして、「どう頑張ってもこの主題をもとにフーガに展開などできるはずがない!!」とほくそ笑んでいる反対派の音楽家を前にしてみれば、絶対に失敗などできる場面ではなかったのです。
それ故に、ここではバッハという人類が持ち得た最高の音楽的才能が爆発します。
バッハは王の求めに応じて、即興でこの主題をもとにした3声のフーガを演奏して見せたのです。おそらく、この時の即興演奏が「音楽の捧げもの」の中の「3声のリチェルカーレ」として収録されているはずです。

想像してみてください。
どう頑張ってもフーガに展開などできるはずがない、上手くいかずに醜態をさらすのを今か今かと待ちわびている宮廷音楽家達の前で、彼らの想像をはるかに超えるフーガが即興で展開されていったのです。その驚きたるやいかほどのものだったでしょうか。
しかし、それでは彼らの面目は丸つぶれなので、さらに彼らはこれを6声の主題によるフーガに展開することを求めます。
これも容易に想像がつくことですが、3声を6声に複雑化するのは難易度が2倍になる等という単純な話ではありません。単純な順列組み合わせで考えても、3声ならば組み合わせパターンは6通りですが、6声ならば720通りになってしまいます。フーガがその様な算術的計算で割り切れるようなものでないことは分かっていますが、それでも難易度が飛躍的に上がることは容易に想像がつきます。

さすがのバッハもその求めに即材に応じることはできずに1日の猶予を願い出るのですが、それでもその様な短期間で6声に展開することはできなかったので、バッハは自らの主題に基づいた6声のフーガを演奏してプロイセンを離れます。
結果としてこの勝負は1勝1敗となった訳なのですが、これほど不公平な勝負をドローに持ち込んだだけでも「人間技」をこえています。

しかし、バッハにしてみれば、この1敗が気に入らなかったようです。
彼はプロイセンから帰ってくると、この王の主題に基づいた6声のフーガに取り組み、その成果を13曲からなる「音楽の捧げもの」としてフリードリヒ2世に献呈するのです。なんだか、バッハの「ドヤ顔」が想像されるようなエピソードですが、そのおかげで私たちは人類史上例を見ないほどの精緻なフーガ作品を手にすることができたのです。

この「音楽の捧げもの」は大小あわせて13曲からなるのですが、それをどのような楽器で演奏するのか、さらにはどのような順番で演奏するのかが明確に指定されていません。(楽器については3曲だけが指定されている)
ですから、今日の研究では、これを一つの作品として全曲を通して演奏することは想定されていなかったとされています。しかし、全13曲が以下の3つのグループに分かれることだけは確かなようなのです。


  1. 第1部:「3声のリチェルカーレ」「6声のリチェルカーレ」

  2. 第2部:「王の主題に基づくトリオソナタ Largo~Allegro~Andante~Allegro」

  3. 第3部:「王の主題のカノン的労作 第1グループ(6曲)~第2グループ(4曲)」



なお、この作品群を詳細に紹介する力は私にはないので、そう言う細部に興味ある方は、「音楽の捧げ物」などを参照してください。

しかしながら、このエピソードには残念な後日談があります。
それは、これほどの作品を献呈されたにも関わらず、さらには、自らが命じた形になっていたにもかかわらず、フリードリヒ2世はこの作品集には何の興味示さなかったらしいのです。ですから、この作品が、その後プロイセンの宮廷で演奏されたという形跡もありませんし、もしかしたらフリードリヒは楽譜に目も通さなかった可能性もあるのです。

バッハのような「知性」を必要とする音楽よりは、陽気で楽しい音楽が持て囃される時代へと移り変わるようになり、フリードリヒの嗜好もその様なものだったのです。

おそらく、時代はバッハを理解しなくなっていたのです。
そして、この残念な後日談は、その後100年近くにわたってバッハが忘却されることを暗示する最初の出来事だったとも言えるのです。


血が出るような穏健さ


メニューヒンというヴァイオリニストに対する評価は難しい面を持っています。
10代で神童としてデビューした早熟の音楽でありながら、その後はあれこれの技術的な弱さが指摘される人でした。しかし、その名声を活用してナチスの戦犯容疑からフルトヴェングラーを解放するという活動を行った人でもありました。そして、その見返りとしてユダヤ人社会が大きな力を持つアメリカの音楽界から追放される憂き目にあうのですが、それでも己の信念を曲げることなく活動の本拠をロンドンに移す「気骨」の人であり「人道」の人でもありました。

そして、そう言う「人道主義者」としての側面に思い入れを持って聞く人は、彼の演奏のことを、「今、窓から飛び降りようとしている人に向かって、懸命に語りかける演奏」だとしてその高い精神性を褒め称えるのですが、そう言うことに「価値」を認めない人はただの下手な演奏だと切って捨てるのです。
そういえば、随分昔に、彼の2度目のバッハの無伴奏録音(1956年)をアップしたときにも、私もまた何とも言えず歯切れの悪い書き方をしていました。

「ヨハンナ・マルティの無伴奏を聴いてしまうと、今までは実に豊かで流麗と思っていたメニューインの演奏のあちこちに「キコキコ」した部分が気になって仕方がありません。もっとも、その「キコキコ」が、あまりにも気持ちよく横に流れていくことを「拒否」する解釈からくるものなのか、ボーイングの不備から来るものなのか、素人の私には断定できません。ただ、今まではシゲティの対極にあるバッハとして喜んで聴いていたものが、その向こうにマルティという存在がいることを知ってしまうと、私の中での存在価値が下がってしまったことは否めません。」

若者の最大の強みは「知らない」事です。
そして、知らないがゆえに己の信じるものを衒いもなく絶対の自信を持って表現しきることができます。未だ10代だったメニューヒンが30年代に録音した無伴奏の録音からは、やんちゃ坊主そのままの勢いに満ちた好き勝手な演奏が展開されているのですが、その好き勝手ぶりの何と魅力的なことか!!

50年代以降のメニューヒンの「不調」は一般的には第2次大戦下の過労とそれに伴う体調不良に帰されることが多いのですが、変わり目を迎えた時代のメニューヒンの録音を聞いてみると、その奥にはフルトヴェングラーとの交流の中で「知ってしまった」事への「恐れ」があったのではないかという気がしてきます。「恐れ」を知らなかった若者が(彼がフルトヴェングラーの擁護を買って出たのは31歳の時でした)、この偉大な指揮者と音楽活動を重ねることで「恐れ」を知ってしまったのです。
そう言えば、彼は、フルトヴェングラー以外とは共演したくない、みたいなことを語っていました。

ところが、そのフルトヴェングラーが54年に亡くなってしまうのです。
彼は何も語っていませんが、このフルトヴェングラーの死は彼にとって大きな衝撃であったはずです。音楽というものが持っている底知れない世界への扉が開け放たれて、そこへ一人で放り出されたのです。

そこで「恐れ」が生じなければ嘘です。

ですから、私がかつて感じた50年代の無伴奏の録音に対する疑念は半分は当たっていたのかもしれません。
あそこで感じた「流麗さ」は、実は「穏健さ」だったのです。
もっときつい言い方をすれば、それは「流麗なバッハ」というマルティのような「信念」に裏打ちされたものではなく、「恐れ」を知ってしまったがゆえに、どこからも文句が出ないように気配りを張り巡らした「穏健さ」の産物だったのです。
そして、その思いは、この時代に集中的に録音されたバッハ演奏を聴いているうちに、次第に確信に変わっていきました。

フルトヴェングラーが亡くなってからは「音楽の捧げもの」「ブランデンブルグ協奏曲」「管弦楽組曲」というバッハ作品を集中的に録音しています。そして、その演奏スタイルは時代の潮流に沿った小規模のアンサンブルでありながら聞こえてくる音楽はきわめて「穏健」で「保守的」なものなのです。
この時代は、パイヤール、シモーネ、マリナー、ミュンヒンガーなどが活動を始めた時期であり、さらにはドイツではリヒターがミュンヘン・バッハ管弦楽団を率いて意欲的な活動を始めた時期でした。そう言う動きの中にこのメニューヒンの録音を置いてみると、「穏健」という言葉しか思い浮かびません。

もちろん、メニューヒンのバッハは、かつての大指揮者達がフルオーケストラをたっぷりと鳴らして豊かに歌い上げていた「古いバッハ」とは全く異なります。しかし、演奏の基本的なスタイルは時代の潮流に沿ったものでありながら、そう言う古い価値観の側から突っつかれて言い逃れができるような音楽であることも事実なのです。言葉をかえれば、そう言う古いバッハにも捨てきれない価値があることを「知って」しまったのです。

やはり音楽というのは人の魂に訴えかけるものでなければ存在価値がありません。
新しい表現スタイルが一時的に人の関心をひいたとしても、それが「新しさ」だけであればいつか捨てられてしまいます。この時代のバッハで、今も多くの人の心に響くがリヒターのバッハであるという事実がその事を如実に証明しています。

おそらく、メニューヒンがフルトヴェングラーから学んだ最大のものがこの事だったのではないでしょうか。しかし、ここでのメニューヒンのバッハから聞こえてくるのは「知ってしまったが故の恐れ」です有り、それを突き破れないもどかしさです。
おかしな表現かもしれませんが、その意味では、この「穏健さ」は「血が出るような穏健さ」なのです。

そして、その一見すれば穏やかに見える表情の奥にその様な思いがあるがゆえに、そこから「今、窓から飛び降りようとしている人に向かって、懸命に語りかける」姿を聞き取るのでしょう。