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モーツァルト:交響曲第41番 ハ長調 "Jupiter" K.551


ラファエル・クーベリック指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 1961年1月8日&10日~11日録音をダウンロード

  1. モーツァルト:交響曲第41番 ハ長調 "Jupiter" K.551 「第1楽章」
  2. モーツァルト:交響曲第41番 ハ長調 "Jupiter" K.551 「第2楽章」
  3. モーツァルト:交響曲第41番 ハ長調 "Jupiter" K.551 「第3楽章」
  4. モーツァルト:交響曲第41番 ハ長調 "Jupiter" K.551 「第4楽章」

これもまた、交響曲史上の奇跡でしょうか。



モーツァルトはお金に困っていました。1778年のモーツァルトは、どうしようもないほどお金に困っていました。
1788年という年はモーツァルトにとっては「フィガロの結婚」「ドン・ジョヴァンニ」を完成させた年ですから、作曲家としての活動がピークにあった時期だと言えます。ところが生活はそれとは裏腹に困窮の極みにありました。
原因はコンスタンツェの病気治療のためとか、彼女の浪費のためとかいろいろ言われていますが、どうもモーツァルト自身のギャンブル狂いが一番大きな原因だったとという説も最近は有力です。

そして、この困窮の中でモーツァルトはフリーメーソンの仲間であり裕福な商人であったブーホベルクに何度も借金の手紙を書いています。
余談ですが、モーツァルトは亡くなる年までにおよそ20回ほども無心の手紙を送っていて、ブーホベルクが工面した金額は総計で1500フローリン程度になります。当時は1000フローリンで一年間を裕福に暮らせましたから結構な金額です。さらに余談になりますが、このお金はモーツァルトの死後に再婚をして裕福になった妻のコンスタンツェが全額返済をしています。コンスタンツェを悪妻といったのではあまりにも可哀想です。
そして、真偽に関しては諸説がありますが、この困窮からの一発大逆転の脱出をねらって予約演奏会を計画し、そのための作品として驚くべき短期間で3つの交響曲を書き上げたと言われています。
それが、いわゆる、後期三大交響曲と呼ばれる39番?41番の3作品です。

完成された日付を調べると、39番が6月26日、40番が7月25日、そして41番「ジュピター」が8月10日となっています。つまり、わずか2ヶ月の間にモーツァルトは3つの交響曲を書き上げたことになります。
これをもって音楽史上の奇跡と呼ぶ人もいますが、それ以上に信じがたい事は、スタイルも異なれば性格も異なるこの3つの交響曲がそれぞれに驚くほど完成度が高いと言うことです。
39番の明るく明晰で流麗な音楽は他に変わるものはありませんし、40番の「疾走する哀しみ」も唯一無二のものです。そして最も驚くべき事は、この41番「ジュピター」の精緻さと壮大さの結合した構築物の巨大さです。
40番という傑作を完成させたあと、そのわずか2週間後にこのジュピターを完成させたなど、とても人間のなし得る業とは思えません。とりわけ最終楽章の複雑で精緻きわまるような音楽は考え出すととてつもなく時間がかかっても不思議ではありません。
モーツァルトという人はある作品に没頭していると、それとはまったく関係ない楽想が鼻歌のように溢れてきたといわれています。おそらくは、39番や40番に取り組んでいるときに41番の骨組みは鼻歌混じりに(!)完成をしていたのでしょう。
我々凡人には想像もできないようなことではありますが。

スコアが指し示すように演奏すれば音楽は自ずからあるべき姿に至る

クーベリックのモーツァルトと言えば、80年代にバイエルン放送交響楽団と録音した後期交響曲集が思い出されます。あれは、モダン楽器によるモーツァルト録音の一つの頂点を示すものとして未だにその価値を失っていません。

あの演奏は実に持って不思議な演奏で、始めて聞いたときにはいわゆる尖った部分が一つもないので、これと言った印象はほとんど残らないのです。指揮者というのは、どこかに自分の爪痕を残したいと思うのが普通で、その爪痕がいわゆるその人の個性だったりするのです。
そして、聞き手もまた、その様な爪痕を探しては、それぞれの好みに従ってその爪痕を愛でたり拒否したりするわけです。

ところが、このクーベリックのバイエルン盤は、驚くほどに爪痕がないのです。

世は、こういう演奏を指して「楽譜に忠実」な演奏と評するのでしょうが、いわゆる「楽譜に忠実」なだけの演奏とは明らかに佇まいが違います。「楽譜に忠実」なだけの演奏ならば、それをもう一度引っ張り出してこようなどという酔狂な考えは起こらないのですが、いわゆる爪痕ばかりを愛でていると、ある時ふと、このクーベリックのモーツァルトを聴いてみたくなるのです。
そして、始めはこれと言った印象が薄かったこのモーツァルトを何度か聞いているうちに、何故かじわじわと「これっていいよね」という思いがわき上がってくるのです。

人はこれを「スタンダード」と呼びました。
確かにモダン楽器によるモーツァルト演奏としては、疑いもなく一つのスタンダードだったような気はします。しかし、そう言う言葉で括ってしまうと、そこからこぼれ落ちてしまうものが大きいことも事実です。

確かに、そう思って腰を据えて聞いてみれば驚くほどに細部まで心遣いが行き届いていることに気づかされます。しかし、そう言う細部への気配りは決して演奏のガタイを小さくしていません。
この演奏の根底には、古典派の交響曲というものはどのように造形すべきかという優れた知性と、それを実際の形にするためのスキル、そしてそれらを総合して美しいものに仕上げるためのバランス感覚が高い次元で調和しています。

結果として、指揮者は何もやっていないように見えながら、作品の隅々にまで意志が徹底しているという境地に達していたのです。

そこで、この60年代にウィーンフィルと録音したモーツァルトです。
明らかに、ここで彼が指向してる方向性は後の80年代と何ら変わりないことに気づかされます。おそらく、こういうスタンスは、彼自身が作曲であるという強烈な自負心があったのでしょう。
スコアを分析し、そのスコアが指し示すように演奏すれば音楽は自ずからあるべき姿に至るという思いです。

しかし、オケがウィーンフィルと言うこともあるのでしょう。残念ながら、ここではバイエルン盤ほどには彼の意志は徹底していないように聞こえます。
悪くはない演奏ですが、後のバイエルン盤を知るものにとってはどこか道半ばという感が拭いきれません。

録音の方も、ボロディンの項で述べたようにそれほど恵まれていないのも足をひっぱているかもしれません。