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ブラームス:交響曲第1番 ハ短調 作品68


ユージン・オーマンディ指揮 フィラデルフィア管弦楽団 1959年2月8日録音をダウンロード

  1. ブラームス:交響曲第1番 ハ短調 作品68 「第1楽章」
  2. ブラームス:交響曲第1番 ハ短調 作品68 「第2楽章」
  3. ブラームス:交響曲第1番 ハ短調 作品68 「第3楽章」
  4. ブラームス:交響曲第1番 ハ短調 作品68 「第4楽章」

ベートーヴェンの影を乗り越えて



 ブラームスにとって交響曲を作曲するということは、ベートーヴェンの影を乗り越えることを意味していました。それだけに、この第1番の完成までには大変な時間を要しています。

 彼がこの作品に着手してから完成までに要した20年の歳月は、言葉を変えればベートーヴェンの影がいかに大きかったかを示しています。そうして完成したこの第1交響曲は、古典的なたたずまいをみせながら、その内容においては疑いもなく新しい時代の音楽となっています。


 この交響曲は、初演のときから第4楽章のテーマが、ベートーヴェンの第9と似通っていることが指摘されていました。それに対して、ブラームスは、「そんなことは、聞けば豚でも分かる!」と言って、きわめて不機嫌だったようです。

 確かにこの作品には色濃くベートーヴェンの姿が影を落としています。最終楽章の音楽の流れなんかも第9とそっくりです。姿・形も古典派の交響曲によく似ています。
 しかし、ここに聞ける音楽は疑いもなくロマン派の音楽そのものです。

 彼がここで問題にしているのは一人の人間です。人類や神のような大きな問題ではなく、個人に属するレベルでの人間の問題です。
 音楽はもはや神をたたるものでなく、人類の偉大さをたたえるものでもなく、一人の人間を見つめるものへと変化していった時代の交響曲です。

 しかし、この作品好き嫌いが多いようですね。
 嫌いだと言う人は、この異常に気合の入った、力みかえったような音楽が鬱陶しく感じるようです。
 好きだと言う人は、この同じ音楽に、青春と言うものがもつ、ある種思いつめたような緊張感に魅力を感じるようです。

 ユング君は、若いときは大好きでした。
 そして、もはや若いとはいえなくなった昨今は、正直言って少し鬱陶しく感じてきています。(^^;;
 かつて、吉田秀和氏が、力みかえった青春の澱のようなものを感じると書いていて、大変な反発を感じたものですが、最近はこの言葉に幾ばくかの共感を感じます。
 それだけ年をとったということでしょうか。

 なんだか、リトマス試験紙みたいな音楽です。 い人でも、この作品の冒頭を知らない人はないでしょう。

心地よく、そして安心して音楽に浸ることができる演奏

オーマンディのベートーベンは世間で言われるほどには悪くはありません。吉田大明神にぼろくそに言われたエロイカも、実際に聞いてみれば悪い演奏ではないことはすぐに分かります。
そして、それと同じ文脈において、彼のブラームスも悪くはありません。

こんな書き方をすると違和感を感じる人がいるかもしれませんが、こういうオーマンディ的アプローチに基づいたベートーベンやブラームスにはオンリーワンの魅力があります。
確かに、70年代のカラヤン盤は流麗さではこれを上回るかもしれませんが、あそこでは締まるべきところが全く締まっていません。
結果として、音と音がノッペリと繋がっていて、ベートーベンやブラームスらしい引き締まったフォルムが希薄となって、そこに不満を感じる人も多いでしょう。

クラシックであれポップスであれ、音楽なんてものは聞いて楽しければいいじゃないかという人がいます。一見すれば酸いも甘いも噛みしめた達人のような物言いのように聞こえるのですが、その中味を覗いてみれば驚くほどに空っぽであったりします。
ですから、吉田秀和のように多様な西洋の歴史と文化の中に音楽を位置づけて、その位置づけの中から個々の演奏に対する彼なりの「意味」と「価値」を明らかにしていく事は、そう言うものの分かったような空っぽの論議を黙らせるためには必要不可欠なものでした。
しかしながら、その「くどさ」が時には鼻につく人もいて、そこに教養主義の匂いをかぎつける人もいたことでしょう。

確かに、そう言う歴史や伝統、文化的な積み重なりばかりに目をやりすぎると、クラシック音楽というものがもっているもう一つの側面を見落としてしまうことになります。
そのもう一つの側面とは、言うまでもなく、「クラシック音楽もまた一夜の劇場的興奮を求める人のために供され音楽」であると言う事実です。

その意味では、クラシック音楽もまたポップスなどと同じ土台に立つ音楽です。

しかし、この国におけるクラシック音楽受容の歴史を振り返ってみれば、クラシック音楽もまたその様な側面を持っていることを実感として日本人が気づくためには、バブル期以降に多くの普通の日本人が彼の地を訪れて、実際の劇場に足を運ぶという経験が必要でした。
おそらく、吉田にしてみればそんな事は分かり切ったことではあったのでしょう。
しかし、そう言う側面を60年代の日本で強調することは、そう言う時代的制約の中にいるクラシック音楽ファンをミスリードすることになる判断したのかもしれません。そして、その判断が時には「勇み足」になってしまう場面もあったと言うことなのでしょうか。

ですから、これらの録音を聞きながら「その日の仕事に疲れた勤め人が劇場に足を運ぶときに、聞いてみたいと思えるベートーベンやブラームスはこのような姿をしているとは思いません」と心の中で吉田氏に対して語りかけてみたくなるのです。